大場大のブログ "セカンドオピニオン"

がん治療専門医による、あくまでも個人的な「つぶやき」ブログ

'がん放置理論' の蔓延は悪魔の沙汰 -月刊誌『Voice』掲載記事より-

最新刊 『Voice』 (PHP研究所) 4月号に寄稿させていただきました。若干 Voice 的アナロジーも含めていますが、その拙記事を本ブログでも (注; 実掲載とは若干異なります) アップさせていただきます。

巷に頻繁に登場する、 '近藤理論' を中心に据えた議論について、それに注目すること自体が結局のところ出版ビジネスの術中にはまっているのではないでしょうか。タイトルは辛辣ですが、その理由については本内容をみていただけたらと存じます。

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ファウストは、悪魔メフィストフェレスに向かって言います。「悪魔は利己主義で、悪魔のただほど高いものはないはずだ」と (ゲーテ『ファウスト』より)。

 

「がん」は人生を一変させる暗い病気です。ひとたび、「がん」が厳粛な現実として訪れた際には、ひとりひとりが何よりも重要な意思決定をしなくてはいけません。しかし、インターネットやSNSの普及などによって、情報の流動化が著しい現代社会においても、がん医療に対するリテラシーが向上しているようにはみえません (この問題につて、「市民のためのがん治療の会」HPに寄稿させていただきましたので、よかったらそちらもご覧ください 市民のためのがん治療の会 もっと市民のために シリーズ がん医療の今 )。

そして、その病理につけ込むことで様々なエセ医学や不誠実ながんビジネスは温存され続け、最近では増々活気を帯びているくらいです。むしろ情報が多すぎるがゆえに患者は翻弄されていると言ったほうがよいかもしれません。その中でも、一際異彩を放ち、今なお強い影響力を持っているのが、医師・近藤誠という人物の存在でしょう。

「がんは放置がいちばん」「手術は受けるな」「抗がん剤は効かない」「医者に殺される」「がん検診は無意味」などなど、刺激的なフレーズをちりばめた著作の数々はベストセラーとなっています。

それら一連のものを「近藤理論」とメディアからもてはやされていますが、医学的に検証されているものは何一つなく、また客観性のある医学論文の形にもなっていません。したがって、単なる個人の主義・主張でしかないことに今一度留意しておく必要があります。

しかしながら、当の本人はそんなことはお構いなく、内容が重複していても手を変え品を変えながら、多数の記事や著作物を継続的に世に放つ様。それはまるで布教活動の如しです。最近では自身をモデルとした問題漫画『医者を見たら死神と思え』(ビッグコミック 小学館) にまで精力的に着手し認知度アップを計っているようです。結果、心配や不安を抱えたがん患者に多大な悪影響を与えるのみならず、実際の医療現場でも少なからずの混乱を招いています。

もちろん日本には言論の自由があります。しかし、医師の立場として、現代の医療に対する頭ごなしの「否定」で塗り固められた観念の連打はいかがなものでしょうか。がん患者にとって、後戻りのきかない一度限りの命や人生の過ごし方に関わる重要な意思決定をしなくてはいけない時に、誤った判断材料になってしまうリスクが多分に生じてきます。

昨年10月に惜しまれながらこの世を去った、女優・川島なお美さんの闘病手記『カーテンコール』(川島なお美・鎧塚俊彦著 新潮社) の序章には、以下のようなメッセージが綴られています。「即手術しなかったのも、抗がん剤や放射線治療に見向きもしなかったのも先生 (近藤氏を指す) の影響かもしれません。でも、がんは放置さえすれば本当にいいのでしょうか?何もしないことが最良の選択なのでしょうか?検診にも行かない。がんを発見することも無駄。知らぬが花だ…。私はそうは思いません。(中略) がんと診断されたら放置するのではなく、その対処いかんでより健全で、充実した生き方が待っている。それは、私ががんになってみて初めてわかったことなのです。がんと診断された皆さん、決して『放置』などしないでください。まだやるべきことは残っています」

川島さんが患った肝内胆管がんは、診断された当初はおそらく治癒率が高かったであろう早期の状態でした。それにもかかわらず、近藤氏はセカンドオピニオンを求めた川島さんの病気について本来ある医学的な説明責任を怠り、彼の思想を押し付けるだけのものでした。適切なタイミングで適切な治療を受けることが叶わなかったことへの悔恨の気持ちが感じ取れます。

そうなると、医師が放つ言論としてはもはや個人の主義・主張の範疇を越えて、倫理的に大きな問題を孕んでいると言わざるをえません。

ここで、ご存じではない読者もいるでしょうから、近藤理論の根幹をなす「がんもどき理論」について要約してみますと、以下のようになります。

がんには「本物のがん」と「がんもどき」がある。しかし、前もって区別はできない。「本物のがん」はわずか1ミリくらいの大きさの時点ですでに転移している能力があるので、基本的に治療をしても無駄である。「がんもどき」は放っておいても、転移しない。下手に手術や抗がん剤治療などを受けると命を縮めるだけ。だから、いずれにせよ放置するに限る。

なんだか狐につままれたような話ですが、医学的観点を抜きにして考えてみると、極めてよくできたロジックと言えるかもしれません。患者さんがどのような転帰を辿ろうとも「ね、私の主張(がんもどき理論)の通りでしょ」と言うことができるわけです。「結論ありき」の逆算によって、自分の都合のよい理屈のみで組み立てられた近藤理論は、すべて予定調和式になっています。根拠を裏付けるための数字やデータは、都合のよいものしか登場してきません。ほかの都合の悪いことは伏せておくか、何かしら因縁をつけることで排他的に扱います。このように「最強」にもみえてしまう近藤理論の本質は、ひとりひとりの患者の時間、人生を無視した、詭弁でしかありません。

「がんを治したい」「自分らしく1日でも長く生きたい」「満足のいくレベルまで苦痛を取り除いて欲しい」といった、がん患者にとっての希望や願いには何も答えてくれません。これまでも、アナウンサーの逸見政孝さんや歌舞伎役者の中村勘三郎さんなど、がんで死去された著名人を必ず取り上げ、亡くなってしまった結果を前提として持論をうまく挿入しながら後付けで声を挙げるパターンを繰り返してきました。しかし、先の川島さんのケースに限っては、これまでと異なり、自らが直接関わったことによって、まさか当人から死後に非難を浴びるとは彼も予想できなかったのでしょう。

川島さんのケースに限らず、彼の言説を妄信してしまったがゆえに、本来救えたはずの患者が救えなくなった事例、もっと苦しまずに長く生きることが出来た事例は少なくないはずです。その元凶である近藤理論がこの先、虚偽として裁かれた場合、彼自身、そして彼の表現を厚く手助けしてきた出版社はどのような倫理的・人道的責任を負えるのでしょうか。

釈迦に説法のようで恐縮ですが、医師としてがん患者と向き合うことは、机上で評論したり都合のよい数字やデータを操ることではないはずです。近藤氏自身は安全地帯に居座り、治療によるリスクが怖いぞ、危険だぞ、と誇大に恐怖を煽るのみでそもそも医師として何一つ責任を負っていません。そして、論理一辺倒のふるまいは医学ではなく単なる「思想」でしかないということです。

最新刊の『がん治療の95%は間違い』(幻冬社舎新書)では、以下のような恐怖記述が山のように登場してきます。

<手術を受けた直後にバタバタと亡くなる> <胃の全摘術による術死は少なくない> <抗がん剤で急死する患者は少なくない> <毒性で苦しんで体力を落とし寿命を縮める効果しかない> <初回治療で亡くなるケースもある> <術後5年以内に亡くなる人のほとんどは実際にはがん死ではなく治療死である>などなど。

これらリスク頻度を一切数字で示すわけではなく、攻撃対象を何が何でも悪と裁くために、蓋然性の低い有害事象であるにもかかわらず、主観のみで誇大に恐怖を煽るような印象操作には嘆かわしくなります。

最近報道されたニュースの中で、名古屋大学病院は、ある患者に対し、約3年にわたってCT画像検査で肺がん病変が見逃されていた事実があったことを発表しました。その患者は、肺にあった影が見落とされた結果として肺がんが進行し、それが原因で死亡したというものです。それが非として裁かれるのであれば、意図的な放置を推奨する近藤氏はより悪質であり、看過してよいはずがありません。

近藤理論にあえて従うとするならば、「それは本物のがんであったから、見逃されても死という結果は同じであった」という理由で許容されてしまうのでしょうか。いえ、絶対にそういう話になるはずがありません。

私は、近藤理論の実際の具体的内容に触れ、『週刊新潮』誌上や拙著の中で、その医学的誤謬を可能な限り指摘してきました。昨年の7月には『週刊文春』誌上で、近藤氏サイドから依頼があり、彼の眼と眼を合わせながら直接対論もいたしました。それら一連の経緯をふまえたうえで、本記事でセンセーショナルなタイトルをあえて付したのには理由があります。乱暴な表現だと思われる読者もきっといるでしょう。しかし、前述してきた内容とこれから後述する内容を含めて、何故に「悪魔の沙汰」であるのかを (『Voice』) 誌面の許す限り記してみたいと思います。

 

120万部以上のベストセラー作である『医者に殺されない47の心得』(アスコム)の中では、「医者はヤクザや強盗よりタチが悪い」と記述しています。「ヤクザはしろうと衆を殺したり、指をつめさせたりすることはありません。強盗だって、たいていはお金をとるだけです。しかし医者は、患者を脅してお金を払ってもらった上に、しょっちゅう体を不自由にさせたり、死なせたりする」あるいは、写真週刊誌『FLASH』(2014年11月4日号) では、「病院は、金儲けのためなら、平気で患者の子宮を奪いとる」と掲げました。そして、産婦人科医師の母集団のことを「子宮狩り族」呼ばわりする始末。世界中どこを見渡しても、医師としてこのような倫理的配慮を欠いた危険なメッセージを平気で公にできる者は他にいないでしょう。

「日本の医師は勉強不足でレベルが低い」「日本のがん医療はダメだ」

このように吹聴し続けるわけですが、近藤氏もこの国の医師の資格を持しているはずです。ところが、先人たちがまだ見ぬ国民の健康を願って積み重ねてきた経験知や歴史を、そしてそれらを継承しさらに進歩させようとしている現場の理性を容易に貶めようとします。

ちなみに、「医者はお金に汚い野蛮な人」というレッテルを貼るのが常套手段なのですが、近藤氏自身も医師という立場を利用して、これまでに稼いだ収益は相当な額にのぼっているのではないでしょうか。

例えば、川島さんから「お高い」と評価された30分までの相談料3万2,000円で運営している近藤誠がん研究所セカンドオピニオン外来のホームページをみると、開設以来わずか3年足らずの2015年12月時点で5,000件以上の相談を受けているようです。また、ここ数年だけでも100万部売上を超える著作も含めて何冊ものベストセラーを生み出しているわけで、ざっと見積もっても億単位の莫大な利潤を得ているということです。

稼ぐことが悪いとは言いませんが、社会貢献に奉仕すべき医師という職業姿勢として、売名活動に勤しむ姿はみてとれても、稼いだ利益の一部でも、がん患者やがん教育のために社会還元するような行動は何一つみられません。

そして、もっとも問題視したいのは、近藤氏には医師としての「倫理」が欠如していることです。臨床医学を考えるうえで絶対に無視をしてはいけない、何にも妨げられない礎が「医の倫理」です。なぜならば、医療の対象はモノではなく、病んだ「人」であり、尊い「命」だからです。「医の倫理」がないがしろにされてしまうと、そこは道徳を失った無法地帯となってしまいます。見かけ上、テクニカルにいくら理屈のようなもので成り立っていても。

しかるに、「がん」を単なる関心事や興味ととらえるメディアにとっては、それの重要性がいまひとつ理解されていないようです。「近藤医師との対決」のように、ディベートでの勝ち負けに焦点を当てるような近藤理論を中心に据えた取り上げ方をいくら繰り返しても、どれほど「がんリテラシー」の向上に役立っているのでしょうか。

もし万が一、近藤理論を医学枠のものとして取り上げたいのであれば、それのエビデンスレベルをあげる努力をみせなくてはいけません。言い換えますと、医学論文という形にして客観的な評価を仰ぐことが前提だということです。STAP細胞問題に揺れた小保方晴子氏も、しっかり科学論文にした後で客観的見地から裁かれたわけです。無知な一般大衆向けに、都合のよい話や数字を調達してきて、わずかな体験談のみでセンセーショナルに論を張るのでは学問的には誰にも見向きされないわけです。

繰り返しになりますが、医学という土俵の上で「がん放置」の優越性について議論されたいのであれば、放置したことによって得られる利益を示さなければいけません。論文にもしないで治療することのリスクを誇大に煽るだけの陰口論調では幼稚だといえるでしょう。それが不可能であれば、自らを科学者と名乗るべきではありませんし、「医学vsオカルト」の構造を永遠に越えることはできないでしょう。

近藤氏との直接対論の中で、早期胃がんを手術する根拠を示せと言われました。手術vs放置を比較したデータがないのに、なぜ手術をするのか?と。それに対し、倫理的にそのような比較は成り立たないことを申し上げました。医師の興味のみでそのような比較試験ができるわけがない。手術によって数えきれない患者さんの命が救われ、その利益は経験知として十分に証明されているわけです。医学論文としても良好な治療成績がしっかりデータとして示されているにもかかわらず、将来が予測できない原始的な放置と比較することは倫理的に不可能であると。

このやりとりを単なる水掛け論と揶揄する者もいました。しかし、もし読者自身や愛するご家族の誰かが、胃がんと診断されたとします。主治医から、「治療方針は手術と放置と二通りがあります。サイコロを振ってどちらになるか確率1/2で決めましょう」と言われてそれに従えるでしょうか。手術にはしっかりした根拠があるのに、放置だったら治せるものも治らなくなる可能性があるから嫌だなあ、そんな比較に巻き込まれるのはごめんだ、という意思決定が十分配慮されなくてはいけないのが「医の倫理」なのです。

私は、すぐさま気づきました。近藤氏は倫理的に実行できないことをあえて問うことで、ディベートに勝つことだけを目指している確信犯なんだと。

18世紀最大の日本古典研究家であった本居宣長は、「世の物知り」を嫌っていたそうです。なぜならば、「考える」とは物事に対する単に知的な働きかけではなく、対象と親身に交わることである、と解釈していたからのようです。

これを医療従事者に当てはめますと、知やスキルを携えながら、患者さんと誠実に向き合うことに相当するのではないでしょうか。

以下のエピソードは、慶應大学病院時代に近藤氏の後輩として当時寄り添って働いていた、ある放射線科医師から聞いた話です。「近藤先生の臨床姿勢は、とにかく患者さんに冷たい、入院している患者さんの顔もろくにみにこないし、末期患者さんの看取りも研修医任せのことがほとんどだった。そのくせ、会議では自信満々で言いたいことだけを語って去っていく」というものです。論文をたくさん読み込むことには時間を費やしても、ベッドサイドに立って患者さんを丁寧に診ることを怠ってきたのでしょう。

では、「医の倫理」とはどのようにして築かれるのでしょうか。決して教科書や医学部教育で学べる認知的なものではありません。臨床現場で患者さんひとりひとりに直接、手を差し伸べながら真摯に向き合うという実践の中で育まれるものだと思います。そう考えますと、近藤理論になぜ「医の倫理」が宿らないのかは賢明な読者にはすぐにおわかりでしょう。

昨今の安保法案反対デモ行進でみられた “安保法案=戦争法案”と身勝手に定義して、ヒステリックに声をあげている人たちに、大きな不安を覚えました。彼ら、彼女らの中に、「日本国憲法」をしっかりお読みになったうえで、国家の安全保障について理性的に議論できる人達が一体どれほどいたのでしょうか。「好きか嫌い」だけの感情論、「〇か×」だけの二元論的な結論付けになってはいなかったでしょうか。そのような思考停止の病理が広く一般に蔓延しているとしたならば、単純化された二元論的な近藤理論が広く受け入れられやすいのは仕方がないことなのかもしれません。

近藤氏の言説をみると、「がんとは、こういうものだ」と理屈のみで言い切っています。すべての患者を、「がんもどき」「本物のがん」の二元論で片づけてしまうように。持論を何が何でも堅守するためには、理屈のうえに理屈を重ね、なぜか論理だけはものすごく発達し、いつも相手を論破するということに囚われているようにみえるのです。

しかし、未知で不慣れな人間は弱いもので、「慶應義塾大学医学部」というブランド肩書きをもつ医師によって、教養や知性を語る立派な出版社から数字や論理を畳みかけられると、すっかり相手のペースに巻き込まれてしまいます。自身の頭で、「それって本当なの?」と懐疑的に考える前に、「そうかもしれない」と変に納得させられてしまう罠です。そればかりか「きっとそうに違いない」という盲信にまで発展してしまいかねません。

まとめますと、近藤理論とは、目の前にいるがん患者をすべてegoism(エゴイズム)によって「点」で裁いてしまうディベート用につくられたゲームのようなものです。都合のよい数字や論文データを駆使することで、相手の反論を抑えることだけを目指しているようにみえます。患者にとっての残された時間や人生という「線」を思いやり、ひとりひとりの幸福の希求についてはまるで配慮されていません。

近藤氏が医師としてこれまでに多くの犠牲者を生み出していることを認知しながらも、非を認めようとせず、同様な「悪質な一貫性」をとり続けるとしたならば、もはやそれは倫理や道徳が宿った医師の姿ではなく、まさに悪魔ではないでしょうか。

冒頭で述べた「悪魔の沙汰」とは 'がん放置理論' の蔓延に他なりません。

倫理を欠いた見事な「やらせ理論」に対して、その胡散臭さをそろそろ嗅ぎ分けなくてはいけない時期がきているような気がします。(月刊誌『Voice』4月号より 一部改変)

 

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

  • 作者: 大場大
  • 出版社/メーカー: PHP研究所

子宮頸がん検診の有効性を歪める嘘

ビジネスの世界では、何かを主張したり、何らかの意思決定を下す場合、それらの根拠は数字で示すように、と教えられるのではないでしょうか。一方で、都合よく巧みに数字を操ることで、事実 (ファクト) が歪められることも多々あります。数字自体は嘘をつきませんが、嘘つきが数字を利用するとどうなるでしょうか。

結論が先にあって、それに都合のいい数字を調達する、ということがクセになってしまうと、いつしか自分に都合のいい数字やデータしかみえなくなるものです。多くの人は統計リテラシーが身についていないことが多いため、そのように数字を利用した論理展開に寄り切られてしまうことも少なくありません。

 

少し前になりますが、写真週刊誌『FLASH』(2014年11月4日号) にセンセーショナルな記事が掲載されました。以下のような、子宮頸がん検診を否定するメッセージです。

「若い人で見つかっているのは、ほとんどがたいしたことのない上皮内がん」

「病院は、金儲けのためなら、平気で患者の子宮を奪いとる」

発言者は、以前より問題にしている近藤誠氏です。そして、彼は産婦人科医師のことを「子宮狩り族」とまで呼び、悲しいかな、これを真似する信者たちまで現れる始末。

世界中どこを見渡しても、医師としてこのような倫理的配慮を欠いた危険なメッセージを平気で公にできる者は他にいないでしょう。

このような恐ろしい表現を持ち出して、リスクを誇大に強調することで、子宮頸がん検診を全否定してしまうイデオロギッシュな集団の言動をみると、心底嘆かわしくなります。このような歪んだ手法は昨今の政治や社会問題を議論する場面においても同様にみられるのではないでしょうか。

 

さて、その近藤氏が監修を務める漫画『医者を見たら死神と思え』(小学館 ビッグコミック 2015年11月10日号 連載第23回) には以下のようなシーンがあります。

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このグラフは、『がん治療の95%は間違い』(幻冬舎新書)でも繰り返し引用され、過去25年間で子宮頸がん罹患率が7倍も増えているのに死亡率は変わっていない、だから検診は無意味で放置がよいと強調しています。

しかし、このグラフはがんが見つかった女性が放置された結果データではありません。産婦人科医師たちが治療介入して得られたものです。したがって、放置が良いと主張されたいのであれば、放置したデータを示したうえで比較議論すべきです。

子宮頸がん検診不要という論理展開についても、このグラフの中では検診の受診率がわずか20〜30%前後に過ぎず、このデータだけを見て検診の是非を問う議論はナンセンスでしょう。ちなみに、以下のグラフは80%を越える検診受診率によって子宮頸がん検診の有効性が示された英国のデータです。

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英国は、1988年に国策として検診を広く全体に普及させたことで、死亡リスクと直接関係のある浸潤がんの罹患率を下げることに成功しています。ちなみに、もし検診推奨を怠り、国民を '放置' させた場合、子宮頸がんによる死亡者数が確実に増えるだろう、というリスクについてもしっかり検討されているのです。

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近藤氏が前のグラフで過去と比較して7倍も増えた子宮頸がんとは、「上皮内がん+浸潤がん」の足し算になります。以下、年齢階級別の子宮頸がん罹患率 (2011年) を上皮内がんと浸潤がんに分けて示します。

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直接死亡リスクに繋がらない上皮内がんを多く含んだ罹患率と死亡率を、30〜34歳のみを対象にして、同じ時点で比較することにどれほどの意味があるのでしょうか。30〜34歳に相当する女性が上皮内がんと診断された場合、適切な治療を受けずに10〜30年放置されることで浸潤がんになるリスクまでも加味された、時系列の議論が必要なはずです。

ちなみに、子宮頸がんの自然史について、上皮内がん (高度異形成含む) が適切な治療を受けないで30年以上放置されると、'30~40%' が浸潤がんに移行するという観察データ報告があります (Lancet 2004; 364: 249-56, Lancet Oncol 2008; 9: 425–34)。

 

上皮内がんが見つかった時に、通常推奨されている円錐切除 (子宮頸部を円錐状に切除すること) について、 近藤氏のベストセラー著書『がん放置療法のすすめ -患者150人の証言』(文春新書) の中に、円錐切除で不妊症になる可能性は「極めて高い」と例のごとく数字を示さないで言い切っています。果たしてそれは本当なのでしょうか。

英国の医学雑誌「BMJ (British Medical Journal) 」よりレビュー論文が報告されています。それによると、円錐切除による不妊リスクは1.29倍、妊娠後の総流産リスクは1.04倍と若干高まるものの、統計学的には未治療と変わらないという結果でした (BMJ. 2014.28;349:g6192.)。

近藤氏は根拠を示さないで「妊娠・出産を望むなら円錐切除は避けよう」と声を上げていますが、長期的にみると放置することのほうが極めて高い '生命リスク' を背負うことになります。

良識ある産婦人科医師ならば、近年増えている若い女性の子宮頸がんに対する妊孕 (にんよう) 性リスクの問題についてはしっかり考えているはずです。治療の際には十分なインフォームド・コンセントもしっかり行き届いていることでしょう。

 

一般的に、上皮内がんから転じた浸潤がんのすべてが死亡リスクに繋がるわけではありませんが、最近メディアで大々的に報じられた全がん協の治療成績をみると、ステージⅡ以降で発見される浸潤がんは、進行度に従って明らかに10年生存率が落ちていくことがわかります。

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そもそも、30〜34歳というわずか5年幅だけの年齢層データをのみを切り取ってきて、子宮頸がん検診は無意味、と一般化する論調は乱暴です。妊孕 (にんよう) 性リスクという視点から、若年女性に注目して議論したいのであれば、偏らずにもう少し年齢幅を広げるべきでしょう。以下、20〜44歳までのデータを抽出してみますと 、15年前よりも、明らかに若い女性の浸潤がん罹患数が増えています。

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次図に示すように、生命リスクのある「浸潤がん」発生リスクが高まることで、若年女性にとっては、時系列とともに死亡リスクが増えていくわけです (Screening for Cervical Cancer: A Systemic Evidence Review for the U.S. Preventive Services Task Force)。

近藤氏のように、30-34歳の限定された「点」だけを切り取って、死亡率が低いことを議論しても何の意味もありません。生命リスクを議論する時には、女性ひとりひとりの時系列を念頭に置いた「線」で考えなくてはいけません。

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'マザーキラー' と称されるこの病気の死亡率を減らすためには一体どうしたらいいのか?という問いに対して、①科学的根拠に基づく子宮頸がん検診の受診率を欧米並みにアップすること、②さらに上流レベルでがん予防を目指すために、HPV (ヒトパピローマウィルス) ワクチン接種の推奨、という解決策が検討されるのは当然のことです。しかし②については、因果関係も定かでないリスクを誇大に煽り、観念のみでHPVワクチンを悪と裁く動きもあるわけです。その問題についてはここでは割愛させていただきますが、代わりに医師・ジャーナリストでもある村中璃子氏による以下のまっとうな記事をご参照ください。

あの激しいけいれんは本当に子宮頸がんワクチンの副反応なのか 日本発「薬害騒動」の真相(前篇) WEDGE Infinity(ウェッジ)

子宮頸がんワクチン薬害説にサイエンスはあるか 日本発「薬害騒動」の真相(中篇) WEDGE Infinity(ウェッジ)

子宮頸がんワクチンのせいだと苦しむ少女たちをどう救うのか 日本発「薬害騒動」の真相(後篇) WEDGE Infinity(ウェッジ)

 

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個人的には、これまで出版メディアを介して子宮頸がん検診の重要性を繰り返し唱えてきたつもりです。なぜならば、子宮頸がんの場合には、上述してきたような検診の有効性を示すしっかりとした科学的根拠があるからです。

その有効性を歪めようとする近藤氏は、「子宮狩り族」と呼ぶにもかかわらず、日本の産婦人科医師たちが現場で適切な治療を施すことで得られた蓄積データを都合よく利用したり、欧米のがん医療レベルの方が日本より良しとするのに、検診受診率70~80%以上の先進諸国が根拠としているエビデンスには見向きもしようとしない。自分にとって都合のよい数字さえ調達できれば、結局はなんでもよいということなんでしょう。

 

私は、決してがん検診原理主義者ではありません。他のがん腫においては、過剰診断や過剰治療というリスク問題は無視のできない重要な課題です。世間を見渡すと、医師や診断レベルの質が担保されていなくても、検査の数だけをこなせばよいとする金儲け至上の行き過ぎた検診ビジネスも数多くみかけます。漫然とPSA (prostate-specific antigen=前立腺特異抗原) を測定しているだけの開業医も少なくありません。また、リスクの低い若年の女性すべてにマンモグラフィが必要だとも思いません。

私は産婦人科医や統計家ではないので、上述してきたことが、ひょっとしたら専門的な解釈と食い違うこともあるかもしれません。だからこそ、産婦人科学会や行政の方々が、今よりもさらに声を大きく上げていただき、一体何が正しいのかわからない人たちへのリテラシー教育に、もっともっと積極的になっていただきたいと思うわけです。

 

冒頭で述べたように、数字を利用する嘘つきに対して「その数字って本当なの?」「その解釈で大丈夫なの?」そう批判的にみれる健全な賢さを、ひとりひとりが身につけて欲しいなと思います。

 

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

  • 作者: 大場大
  • 出版社/メーカー: PHP研究所

がんの自然治癒について -ケリー・ターナー本の虚-

書店のがんコーナーには、正当な医学書が置いてあるコーナーとは別扱いで、相も変わらずがんの自然治癒を謳った「奇跡 (ミラクル) が起きる」系のさまざまな本が並んでいます。はたまた巷のクリニックの中には、自称名医を名乗り、「食事療法でがんが消える」と言い切ってしまうような胡散臭さ満点の民間療法を展開している 'がんビジネス' も目立ちます。

日本にはエセ医学に対する法的規制がないために専門性がなくても誰もが参入可能な商法となってしまいやすいのでしょう。一方で、藁にもすがりたい思いから、身近な how-to (ハウツー) で最大の効果を得たいと期待する患者さんの心理も理解できないものではありません。

 

そのような状況で、「がんの自然治癒系」本として最近ひときわ評判になっているのが、『がんが自然に治る生き方 』(ケリー・ターナー著, 長田美穂訳; 2014年 プレジデント社) でしょう。

がんが自然に治る生き方――余命宣告から「劇的な寛解」に至った人たちが実践している9つのこと

米アマゾンのがん・ヒーリング部門で1位となり、「ニューヨーク・タイムズ」のベストセラーにもランクインした書籍です。その日本語訳版も、発売元であるプレジデント社のPRも相まって、国内でもベストセラーとなっているようです。

 

先日、私のもとに相談に来られた患者さんのご家族の話を聞くと、もう手遅れの末期のがんだから、ということで医師である知人からまさにこの本を紹介され、実践を勧められたとのことでした。その前に、CT検査のみで膵臓がんの末期と診断されたようなので、その検査結果を確認してみたところ、私の目にはどこにもがん病変は映っていませんでした。要するに、がんであるのかどうかもわからない患者さんに対して、末期がんと勝手に診断し、民間療法に誘い込むための手口だったのです。

 

さて、この本の帯にはこう付されています。

《 全米で大反響!》医師たちが見向きもせず放置していた1000件を超える進行がんの劇的な寛解事例の分析と100人以上のインタビューから明らかになった奇跡のような自己治癒力を引き出す9つの実践項目とは?

その9つの教えとは、以下のごとくです。

  1. 抜本的に食事を変える
  2. 治療法は自分で決める
  3. 直観に従う
  4. ハーブとサプリメントの力を借りる
  5. 抑圧された感情を解き放つ
  6. より前向きに生きる
  7. 周囲の人の支えを受け入れる
  8. 自分の魂と深くつながる
  9. 「どうしても生きたい理由」を持つ

この本の筆者であるケリー・ターナー氏のプロフィール欄には「腫瘍内科学」領域の研究者と記されています。ここで、おやっ?と思いました。本の文面を順番に辿っていくと、彼女は医師ではありません。大学卒業後にニューヨークにあるがん専門病院の小児病棟で子供たちと一緒に遊ぶボランティア活動を数週間経験したのちにカリフォルニア大学バークレー校の修士課程に進んで専攻したのが「腫瘍社会福祉学」だったようです。それは、がん患者さんへのカウンセリングを主とした学問です。またハーバード大学で学士号を取得したとされていますが、医学に通じた学問を修めていたわけでもありません。

そこで原本のプロフィール欄を確認してみますと、「integrative oncology」領域の研究者と記述されています。それは、いわゆる民間療法を指し示す単語であり、これを重要な内科学分野である「腫瘍内科」と訳すのは大きな誤りです。ちなみに「medical oncology」が腫瘍内科と訳すべき単語です。

わずかここまでの時点ですでに、出版社や翻訳者による多大な印象操作が働いている匂いがします。「腫瘍内科」という専門タームを使用して学問的な信頼を与え、「ハーバード」「米アマゾン1位」「ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー」などなど日本人が平伏しやすい言葉のてんこ盛りとなっています。

ひとたびベストセラーというレッテルが貼られると、情報の乏しい不慣れな一般の人たちにとって容易に強い影響力をもってしまうバイアス (アンカー効果) があります。例えそれらの真偽がいくら不明であっても。

 

この本のコンセプトが、著者ケリー・ターナー氏の博士論文を本にしたということらしいので、その原著論文がどのようなものか直接読んでみようと思いました。そこで、米国国立医学図書館が運営する論文データベース PubMed (パブメド) で検索してみたところ、まったくヒットしてこなかったわけですが、Google 検索をしてみると、それと思しきものが発見されました (IJTS 2014; 33: 42-56)。

それが掲載されているジャーナルが、腫瘍 (がん) 学をテーマとして扱っている科学的なものかと思いきや、その雑誌名は『International Journal of Transpersonal Studies』というもので、信仰やスピリチュアル、ヒーリングのような 'オカルト' をテーマとしているものだったのです。

PubMed (パブメド) でヒットしてこないのは、学術論文として引用されることがほとんどない、客観的評価が乏しいことを意味します。そのようなレベルであっても、一般向け書籍にするとベストセラーになってしまうのは厄介なジレンマといえるでしょう。

この背景には、保険医療制度の恩恵によって、本来は高額な治療を安価に受けることが当たり前である日本とは異なり、医療費自己負担という大きな経済リスクを背負わなくてはいけない米国社会だからこそ、信仰やスピリチュアルのようなものに傾倒しやすい病理が存在していることをしっかり吟味する必要があります。

 

さて、冒頭で触れた「1000件を超える進行がんの劇的な寛解事例の分析」に関して、これの詳細データを確認してみたくなりました。ところが、実際の本の中には分析結果がまるで見当たりません。ならばと、ターナー氏の論文に当たってみたところ、以下のセンテンスがあるのみでした。

Over 1,000 case reports of radical remission (RR) have been published in the academic literature since 1899 (OʼRegan, 1995), and approximately 20 new cases are published each year (Challis & Stam, 1990).

要するに、「OʼRegan という人が、1995年に1000例以上の寛解事例をまとめて報告した」と一文で簡潔に述べれられているだけです。

1例1例、ターナー氏が調べて分析した結果などどこにも存在していません。実際に調べたわけではなく、他人様の調査をそのまま引用しているだけの話ということになります。これは「孫引き」という言い方をします。つまりは、いま話題のコピペのようなものと似ているかもしれません。

それにもかかわらず、ターナー氏は本の出だしでこう述べています。

「調べれば調べるほど、いらだちが募っていきました。実際、医師たちはこういった症例について調べることなく、追跡さえしなかったのです」

感情的になるのは自由ですが、この時点で早くも科学的に思考することから逸脱してしまっていて、胡散臭さ満点のスタートとなっています。文中には、このような寛解症例を医師たちは「黙殺している」と声を荒げていますが、分析データを「孫引き」した原典こそ、医師たちがしっかり調査してまとめたものです。

では、実際にがんの「自然退縮」はどれほど起こりえるのでしょうか。日本語論文ですが、がんの「自然退縮」についてまとめられた最近のものをひとつ挙げてみます (Jpn J Cancer Chemother 2013; 40: 1475-87)。その中で、2011年の一年間に日本国内だけで63症例が報告されています。医師は決して黙殺などしていません。

また、それらが詳細に検討された結果、がん患者約1.2万人に1人の割合で「自然退縮」が発生しているとのことです。確率でいうと、1/12,000=0.008% 程度。さらに、「自然退縮」の原因・理由として論文中には23項目が挙げられていますが、必ずしもターナー氏の提唱するような9つの共通項に収束されているわけではありません。

海外からの報告では、腎がん、悪性黒色腫、リンパ腫や白血病、網膜芽細胞腫、乳がんなどに「自然退縮」は特徴的だと報告されていますが、日本では肝がんや肺がんでも報告されているようです。私自身も、じつはこれまで腎がん1例と肝がん1例、「自然退縮」したケースを経験したことがあります。この2例については、ターナー氏の教えのような実践をしていたわけではなく、がんの性質やがんを取り巻く環境が寄与しているという印象でした。

結局、ターナー氏の本には具体的な「1000人の分析」といったものはどこにもなく、「劇的な寛解」を経験した20人と、西洋医学ではない代替医療、民間療法を受けている50人にインタビューしたというだけの話なのです。また、恣意的に都合のいい体験談のみを世界中から探し出してきたセレクション・バイアスが多分にかかっています。

 

この本の最大のずるさは、推奨内容がすべて「仮説」止まりであることを強調しているところでしょう。うわべで検証の必要性に触れておくことで倫理的な逃げ道をつくり、あとは好き放題。その真偽も不明なインタビューを介して、ターナー氏の主観や観念の連打を一方的に繰り広げています。この手法は、前回ブログでも取り上げた、近藤本にも当てはまります。

 

それら仮説の中でも最も厄介なのは、「抜本的に食事を変える」にあるのではないでしょうか。

Let food be thy medicine and medicine be thy food.  汝の食事を薬とし、汝の薬は食事にせよ」

というヒポクラテスの語録を引用し、次のような実践を強く薦めてきます。

  • 砂糖、肉、乳製品、精製食品はノー
  • 野菜と果物の持つ治癒力を信じて摂取を増やす
  • 有機食品で体内をきれいにする (断食含む)
  • 浄水器の水を飲む

自然派主義の人たちにとっては、いかにも泣いて喜びそうな記述のオンパレードです。しかし、がん患者さんにとって有益だとする科学的根拠などどこにも存在していません。また、日本国内にも、これに似た食事療法で「がんが消える」などと平然と唱える医師がたくさん存在しています。因果関係が成り立っていないことがほとんどですが、もしかりに、ある患者さんにとって奇跡的なエピソードが偶然に起きえたとしても、その他大勢の同様な患者さんに、再現性をもって効果が確かめられるような信頼性の高いデータが、彼らから語られることは一切ありません。

 

上記のような食生活の実践によって、がんという病気に対する効果云々が語られる前に、まず「健康リスク」が冒されているということも考慮したほうがよいでしょう。

誤った信仰を植え付けられることで、残された人生をよりよく過ごすチャンスまでも奪われ、本来楽しむべき食生活が犠牲になってしまうということが心配になります。実際の問題エピソードについては、拙著 東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書) でも取り上げましたので、よかったらご覧ください。

 

要するに、これもダメ、あれもダメ、豆類や木の実、野菜ばかりを食べさせられ、挙句の果てには断食まで薦められる始末。大好きな焼肉やお鮨もダメ、お正月にお雑煮もダメ、土用の丑の日に鰻もダメ、クリスマスにケーキも食べられない。これでは、何よりも精神的に不健康であり、人生台無しでしょう。ご家族や友人たちとの、食事を囲んでの楽しい時間も奪われてしまいます。

そのような極端に制限された偏った食生活は、逆に精神的ストレスとして身体にダメージを与えるだけです。ケリー・ターナー本の教えに従って 0.00ナン % の確率で起きるかもしれない偶然に過度な期待を寄せるよりは、食を楽しみ、自分らしく人生を快活に過ごすほうがよい、と私なら考えます。

 

最後に、ヒポクラテスは以下のような語録も残しています。

There are in fact two things, science and opinion; the former begets knowledge, the latter ignorance.  物事にはサイエンスと主観の二つの事象がある。前者は知を、後者は無知を生み出す」

食事療法で「がんが治る」と断言する医師たちの多くは、ソクラテスの「無知の知」ならばまだマシなのですが、無知であることを知ろうとしない、非常に厄介なイデオロギーの持ち主たちだといえるでしょう。

 

この本に代表される数えきれないほどの非サイエンス (オカルト) 本が、書店の本棚に並んでいます。それらを読まれる際には、批判的思考を賢く働かせながら、妄信しないように慎重に読み進めていくことを心がけて欲しいなと思います。

 

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

  • 作者: 大場大
  • 出版社/メーカー: PHP研究所 

 

「がん治療の95%は間違い」の嘘 -川島なお美さんのメッセージから学ぶこと-

故 川島なお美さんの件で問題にされている近藤誠氏について、川島さんの闘病手記『カーテンコール』(新潮社) の序章で、以下のように叙述されています。

 

それからもうひとつ。

様々な著書で有名なM(近藤)先生の存在です。

先生の本でためになったこともたくさんあります。即手術しなかったのも、抗がん剤や放射線治療に見向きもしなかったのも先生の影響かもしれません。

でも、がんは放置さえすれば本当にいいのでしょうか?

何もしないことが最良の選択なのでしょうか?

検診にも行かない。がんを発見することも無駄。知らぬが花だ・・・・。

私はそうは思いません。

がんかもしれないと診断されることで、人生真っ暗になってしまったとしても、
それは一瞬のこと。

目からウロコの「気づき」をたくさんもらえて、かえって健康的でいきいきした人生に変わることだってある。それは、自分の病への向き合い方次第なんです。

ただただ放置し、あきらめて天命をまつのが一番賢く穏やかな生き方という理論。経験者としてはそれがすべて正しいとは思えません。

がんと診断されたら放置するのではなく、その対処いかんでより健全で、充実した生き方が待っている。それは、私ががんになってみて初めてわかったことなのです。

がんと診断された皆さん、決して「放置」などしないでください。まだやるべきことは残っています 。

 

川島なお美さんに強い影響を与えていた近藤氏の最新刊が、幻冬舎新書より出版されました。この出版社特有のPR活動も相まって、かなり売れているようですが、内容は相も変わらず主観やイデオロギーの連打を繰り返しているだけの危ない内容となっています。

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このようなトンデモ本が世に放たれることで、川島さんと同様に多くの読者、患者を惑わすことが予想されます。内容の具体的な誤りについて、いつか機会があれば、あらためて言及したいと思いますが、近藤氏の思考の破綻ぶりについては、これまで拙著でもさんざん指摘してきました。

がんとの賢い闘い方 「近藤誠理論」徹底批判 (新潮新書)

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

 

今回、本書にみられる以下の三つの問題点について部分的に触れてみたいと思います。

  1. 患者がどうなったのかの転帰については触れない
  2. リスクを煽る時は、数字を一切示さない
  3. 数字やデータの調達に恣意やバイアスがある

 

・患者がどうなったのかの転帰については触れない

川島さんに対してもそうであったように、要するに、一方的にオピニオンは言い放つものの、患者さんの転帰については無頓着だということです。理屈に理屈を重ねて、自己満足しているようにしかみえません。

患者さんたちの多くは、一生懸命努力をして治りたいのであり、治療を避けることで一時のラクをして早くには死なないを希望しているわけではありません。治らないがんだとしても、ほとんどの患者さんは、自分らしく一日でも長く生きたいのです。愛する家族とできる限り多くの有意義な時間を過ごしたいのです。それらを手助けするための前向きな行動が、いまあるがん治療の理性的な姿と言えます。

私的な観念や思想を押し付けながら、その後については「患者の自己判断」というのでは冷た過ぎます。そして不思議なのは、本書で登場する患者の誰一人として、近藤氏の言った通りにすることで、「治った」「良くなった」「幸せだった」という評価が存在していないということです。川島さんも、彼の言論を信じてしまったことで「後悔の念」しかなかったようにみえます。

 

・リスクや恐怖を煽る時は、なぜか数字を一切示さない

以下のような恐怖記述が本書の中では山のように登場してきます。一部のみを取り上げてみますと、

  • 手術を受けた直後にバタバタと亡くなり、その後も続々と死んでいく
  • 胃の全摘術になり、術死(= 手術で死ぬこと)も少なくなく、家に帰れても後遺症で亡くなることも少なくない
  • メスを入れたところにがん細胞が集まって、爆発的に増殖し、手術によって転移が広がるケースが多い
  • 元気だったのに抗がん剤治療を始めた途端に急死する患者も少なくない
  • 初回の抗がん剤治療で亡くなるケースもあり、打てば打つほど寿命が縮まるほど毒性が強い

そこまで仰るのであれば、それらの根拠をすべて明確にするべきです。具体的にどのような治療を受け、何人の患者さんのうちのどれくらいの割合でそのような出来事が起きるのかをきちんと数字で示すべきです。主観のみで、誇大に恐怖を煽るような印象操作はとても乱暴だといえるでしょう。

 

・数字やデータの調達に恣意やバイアスがある。

近藤氏が称するエビデンス (根拠) とは一体何なのでしょうか?

例えば、理由はわかりませんが、下図に示すように、あえて30~34歳に限定(?)した子宮頸がんの (人口10万対) 罹患数と死亡者数の乖離データを切り取ってきて、子宮頸がん検診は受けるべきでない、放置がよいと強調します。

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なぜならば、30~34歳の女性では、2011年の子宮頸がん罹患率が25年前と比べて7倍も増えているのに死亡率は変わっていないからだそうです。

この主張は、ビッグコミックで連載中の問題漫画『医者を見たら死神と思え』(小学館) でも強調されているわけですが、このグラフの中に含まれている、死亡されたひとりひとりの患者さんに思いを寄せるような誠実な臨床的判断ではなく、すべてマクロな数字のみで理屈化しています。

このグラフ集団すべてが検診で発見されたがんのデータではありません。また、がんが発見されたあとに放置されたデータでもありません。これまでの検診の受診率はわずか20〜30%前後に過ぎず、また治療の介入が前提にあるこのデータだけを見て検診の是非を問う議論はナンセンスでしょう。

 

子宮頸がんによる死亡者数は、1985年時で1,762人/年、2014年時で2,902人/年と、25年前と比べて年間で1,000人以上も増えています。

一方で、近藤氏が切り取ったてきた30~34歳 の増え続けている子宮頸がん罹患数とは「上皮内がん+浸潤がん」の足し算であり、死亡リスクに直結していない上皮内がんがその多くを占めているわけです。

30~34歳で発見された早期のがんが、もし放置され、それが死亡リスクのある進行(浸潤)がんに至るまでには10~30年以上のタイムラグがあるわけです。したがって、同じ時点での罹患数と死亡数の乖離を議論してもまったく意味をもたず、30〜34歳に相当する女性が上皮内がんと診断された場合、適切な治療を受けずに10〜30年以上放置されることで浸潤がんに移行するリスクまでも加味された、「時系列」での議論が必要となってくるはずです。

翻ると、子宮頸がんの罹患数がいくら増えようとも、産婦人科医による適切な治療の介入によって死亡リスクが抑えられているという見方もできるでしょう。

 

普段から、日本の医師は不勉強だ、無知だ、野蛮だ、と言うわりには、都合のよいデータがあれば、上記のような日本の医師による治療介入データであっても平然と利用します。

エビデンス (根拠) を語るときに、ランダム化比較試験の海外論文データにこだわるのかと思えば、持論に合うデータであれば、超ミクロな症例報告レベルの日本語論文でも、100年前のデータであっても根拠としてしまいます。もはやエビデンスの質や時代背景などお構いなく、どこからともなく都合のよいデータを調達してくるのです。

一方で、持論にとって都合の悪い論文データはフェアに取り上げようとはしません。それらについて言及しなくてはいけないときは、インチキ呼ばわりしたり、陰謀説を持ち出したりして、データは信用に値しないと切り捨てます。それらの判断はすべて近藤氏の主観で裁かれます。

 

本書のあとがきには、こう記されています。

「僕はがんに関するケースのほぼすべてで、新たに下調べをすることなく、相談に応えることができます。これは、おそらく世界でも唯1人でしょう。」

まるで自分がヒエラルキーの頂点に立っていると勝手な幻想を抱いているようにしかみえません。

近藤氏による情報のアウトプットのほとんどが「放置」で、時々「ラジオ波」「放射線」くらいですから、個別の下調べは必要ないのかもしれません。しかし、患者さんにとっては本当に納得できるものなのでしょうか。例えば川島さんの場合、15分ほどのセカンドオピニオン代が3万1,500円であったことに対して「お高い!!」と言われています。

賢明な読者にぜひ理解していただきたいのは、がん医療とは、決して医学論文のデータ出し入れ作業ではありません。要するに、実践抜きの知識や理屈のみで成り立つものではないということです。

 

最後に、根本的な大きな問題提起として、この国ではなぜ近藤氏のような危険な思想家が、いつまでも影響力をもった医師として居座り続けることが可能なのでしょうか。なぜ、責任ある出版メディアは、個人の主観に過ぎない仮説レベルの話を垂れ流し続けるのでしょうか。海外であれば、医師資格を即刻剥奪されるだけではなく、「医の倫理」に反する言動は法のもとで裁かれて然るべきです。

川島さんの命を賭した切実な心の叫びを聞いて、彼は一体何を思うのでしょうか。ちなみに、文藝春秋 (十一月号) 記事にみられるように、もはや声を挙げることができない亡くなられた患者さんは、近藤氏にとっては「人」ではないようです。

 

 

大場先生、がん治療の本当の話を教えてください

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脱・近藤誠理論のがん思考力

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川島なお美さん闘病手記「カーテンコール」で明らかになったこと

川島なお美さんの闘病手記「カーテンコール」(新潮社) が本日発売され、目を通してみました。芸能人ならではのリテラシー問題も垣間みえましたが、生活 (=life) の質というQOLではなく、人生 (=life) の質、生き方 (=life) の質というQOLを何よりも大切にされていたことが伺えました。あとは、本書にたびたび登場してくる患者さんの藁にもすがる思いにつけ込んだ、「がんビジネス」が盛んなことにも驚きました。

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そして、かねてから問題視してきた近藤誠氏によるセカンドオピニオンのまずい実態が明らかにされただけではなく、彼女が受けた腹腔鏡手術についての新たな疑問点もみえてきたので述べてみたいと思います。

 
本書の中では、ドクターとの「お見合い」と記されているように、川島さんは自身が心底信頼の置ける医師を求めて、多くのセカンドオピニオンを受けていたようです。その中でも、近藤氏のもとへは2番目に訪れて、以下のように言われて大変ショックを受けたと記述されています。
 
(近藤氏)「(前略) 手術しても生存率は悪く、死んじゃうよ」
- 言葉が出ませんでした。
きっと、この先生の前で泣き崩れる患者さんは多々いたはず。
 
前回ブログでも示しましたが、患者さんと向き合う近藤氏の姿勢には昔から問題があったのは事実のようです。
 
そして、当時の川島さんの「がん」の大きさは径1.7cmという記載があります。2cmに満たない「肝内胆管がん」は予後良好です。以前にこのブログでも示した通り、適切な手術をこのタイミングで受けていれば、少なくとも5年生存率は70%以上、場合によっては100%まで期待できたかもしれない状況であったことが明らかとなりました。
 
「手術しても生存率は悪く、死んじゃうよ」
 
一体なぜ、適切な手術を受けることで得られる生存利益について、公平な説明がなされなかったのでしょうか。

その代わりに、近藤氏は、川島さんに以下のような不可解な説明をしていました。

 

ぼく(近藤氏) は『ラジオ波なら手術をしないで済むし、1ショットで100%焼ける。体への負担も小さい。そのあと様子を見たらどうですか?』と提案しました。『手術しても十中八九、転移しますよ』ともお伝えしました。むしろ手術することで転移を早めてしまう可能性もあるからです」(NEWSポストセブンより)

 

ラジオ波?で根治は望めません。手術で十中八九?転移はしません。明らかに誤った医学的判断といえます。これに対して、川島さんは以下のように述べています。

 
M(近藤)先生がデータを見ながら説明してくれた時間は、約15分。お支払い含めて、20分足らず。消費税がまだ5パーセントの時代、20分のセカンドオピニオンで3万1500円也。領収証は頼んでいないうちから書かれていました。お高い!!
 
 文藝春秋(十一月号)で意気揚々と記事にされた川島さんへのオピニオンは、わずか15分ほどのものであり、なおかつ、川島さん本人はまるでそのオピニオンには納得していなかった様子がみてとれます。そして、3番目に受けたセカンドオピニオンを聞き終えたあとで、川島さんは以下のようにも述べています。
 
M(近藤)先生は確かに「私の患者で、胆管がんの人を何人もラジオ波専門医に送り込んだよ」とおっしゃっていましたが、あれって一体なんだったんでしょうか?
 
夫の鎧塚俊彦氏も、追記としてこう述べられています。
 
専門医による「胆管がんにラジオ波は有効ではない」との判断とM(近藤)先生との見解の違いについては、確かに今でも疑問に感じることがあります。
そして、人間は、医学や科学では計り知れない心という存在が大きく生き方を左右するものであって、がんへの対処だけではなく、がん患者の心と真摯に向き合うことの大切さをひしひしと感じました。
 
医師としてデタラメを言っても恥じず、都合のよい思想を押し付けて自己満足するのみで、患者さんと真摯に向き合わない近藤誠氏の非道さと冷酷さのみが浮き彫りとなっています。
 
 
結果的に、「肝内胆管がん」が早期に発見されてから半年近くたち、重要なパラーメータである「2cm」を超えて3.3cmほどにまで急速に大きくなり、さらには中肝静脈への浸潤が疑われる状態 (ステージⅢ) まで悪化してからようやく手術を受けています。それまでに受けていたとされる様々な民間療法や巷のクリニック治療は何ひとつ効果がなかったと言い切れるでしょう。しかも、タチの悪い「肝内胆管がん」に対して、開腹手術による根治性と同等であることが何一つ検証されていない腹腔鏡で手術が行われました。それは標準的な手術ではなく、むしろ実験的といえるでしょう。
 
どうしてもひとつ気になったのは、手術後かなり早い時期に再発していて、かつその再発形式が腹膜播種 (ふくまくはしゅ) - お腹の中で、がん細胞が種を撒かれたように広がる - だということです。それも右わき腹に「しこり」という形でも発見されています。
これは、いち外科医の立場からみると、炭酸ガスでお腹をパンパンに膨らませながら10時間を越える長時間にわたって手術操作を行ったがゆえに、播種を引き起こしてしまったのではと疑ってしまいます。さらに、体表の「しこり」に関しては、腹腔鏡手術で使用する器械の出し入れによって、腹壁にがん細胞が付着して起きる (ポートサイト) 再発のような印象をもちました。
 
腹腔鏡手術の名医K先生が執刀されたと記されていますが、どなたかはわかりません。しかし、どのような名医であったとしても、急速に進行しつつある状態で、再発リスクの高いステージⅢの「肝内胆管がん」に対して、いくら川島さんの強い希望とはいえ病院内で倫理的な手順をふんだうえで行われた手術であったのでしょうか。
 
さらには、このK先生は手術したあとのアフターケア (フォローアップ) を他の病院にゆだねているわけですが、これでは手術やりっ放しというということになります。川島さんは、このK先生に手術後も診て欲しかったと書かれているのです。
執刀した外科医は、自らが責任をもって、再発の起きやすい最初の2年間くらいは密に診察を続けるべきでしょう。標準的な手術でないにもかかわらずそれを避けるということは、再発の原因を検討するフィードバックが働かない可能性がでてきます。また同様な転帰を辿る患者さんを生み出しても、一向に反省が生まれないということにもなりかねません。いくら名医とはいえ、真摯さを欠いていると言われても文句は言えないのではないでしょうか。
 
本書を最後まで読んで思ったのは、情報過多の波に溺れないで、賢くリテラシーを身に着けることは意外と難しいのかもしれないということでした。一方で、医師は、患者さんの不慣れな主観にすべて従うのではなく、優しい気持ちで、正しい方向性を示してあげる患者教育もしっかり行うべきだと思われます。
あらためて、川島なお美さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

大場先生、がん治療の本当の話を教えてください

大場先生、がん治療の本当の話を教えてください

 

 

近藤誠理論の本質はディベート用のゲーム

先日読んだ『本質を見抜く「考え方」』(中西輝政 著) の中に、多くの共感や学びがありましたので、今回はそれらを参考にさせていただきながら、近藤言論に潜む危うい「本質」を考えてみます。

(文庫)本質を見抜く考え方 (サンマーク文庫)

まず一般的な話として、さまざまな言い分、見解などと接した場合、素直さをもって物事を考えれば考えるほど、いったいどの結論が正しいのか、わからなくなってしまうことはないでしょうか。とりわけ、それが「がん」という不慣れな難しいテーマになるとなおさらだと思われます。なぜならば、「正しい」と判断できる前提が、他のテーマと比較して個々に定着していないからでしょう。

 

もうご存知かもしれませんが、物事の論理思考のパターンとして教科書的に取り上げられるのが、①演繹法 (三段論法) と ②帰納法 です。

 

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で前提となるエビデンスや経験的根拠は、によってつくられます。そので抽出されるサンプル (対象) や経験に恣意や偏り (バイアス) があると、で必要とされる前提が歪んでしまいます。そうなってしまうと、いくら考えているつもりでいても、いつまでたっても共感の得られる正しい結論に到達することは不可能となるはずです。

 

近藤氏のこれまでの活動は、多くの出版物を通じてそのような歪んだ前提を、未知や不慣れな多くの頭に刷り込んできたともいえます。様々な出版社から著作を量産していて一見凄いようにみえますが、それらのほとんどはパターン化された重複内容となっています。各出版社の編集工夫もさぞかし大変でしょう。マーケットは、相も変わらず前提の備わっていない国内の一般大衆のみに向けられ、同じことを繰り返し繰り返し復習させている印象です。

彼の言論が「医学」枠として本当に真理に近いものであれば、われわれ医療従事者サイドも何らかの納得を見出せるはずです。グローバルでもきっと関心が高まるでしょう。しかし、残念ながら素直さをもってどのように眺めてみても異質なものにしかみえません。

 

がん医療の実践において、もちろん上記のような思考法だけでは成り立ちません。患者さんは、机上の法則や定理に従うものではありませんし、調子のよい数字やデータで操られるものでもありません。

臨床医学を考えるうえで絶対に無視をしてはいけない独立した礎があります。それは「医の倫理」です。なぜならば、医療の対象が救いを求めている「人」であり、尊い「命」だからです。

しかし、「がん」が他人事である方たちにとっては、それを抽象的にとらえてしまい、その重要性がいまひとつピンとこないこともあるかもしれません。

前回のブログでも示しましたが、近藤言論の最大の問題点は「医の倫理」が欠如しているということです。「医の倫理」をないがしろにしてしまうと、そこは客観性を失った無法地帯となってしまいます。見かけ上、テクニカルにいくら理屈が成り立っていてもです。

 

先の中西氏の著作によると、18世紀最大の日本古典研究家であった、本居宣長 (もとおり・のりなが) は、「世の物知り」を嫌っていました。なぜならば、「考える」とは物事に対する単に知的な働きかけではなく、対象と親身に交わることである、と解釈していたからのようです。言い換えますと、情報の羅列や知識・理論を振りかざすのではなく、世の中のさまざまな現象と虚心坦懐に向き合うことから始まるということだ、と著者は述べています。

本居宣長のいうところの「対象と親身に交わること」とは、医師に当てはめると、まさに患者さんと誠実に向き合う「医の倫理」に相当します。

 

以下のエピソードは、慶應大学病院時代に近藤氏に寄り添って働いていた、ある放射線科医から最近聞いた話です。近藤先生の臨床姿勢は、とにかく患者さんに冷たい、入院している患者さんの顔もろくにみにこない、がん終末期患者さんの看取りも研修医任せのことがほとんどだった。論文をたくさん読み込むことには時間を費やしても、ベッドサイドに立って患者さんを丁寧に診ようとしない。」昔から患者さんを机上の理屈のみで扱うクセがあったというものでした。

「医の倫理」とはどのようにして築かれるのか。決して教科書や医学教育で学べる認知的なものではありません。個人的な解釈ですが、臨床現場で患者さんに直接、手を差し伸べながら真摯に向き合うという実践の中で育まれるものだと思っています。そう考えますと、近藤言論になぜ「医の倫理」が宿らないのかは賢明な読者にはすぐにおわかりでしょう。

 

近藤氏は、「がんとは、こういうものだ」と容易に理屈のみで言い切ってしまいます。これは、ビジネスだからと平然とエセ医学を取り扱っても恥じない白衣を着た詐欺師たちにも共通しています。要するに、実際のがん患者さんのことを真の意味で知らないということです。

持論を何が何でも堅守するためには、理屈のうえに理屈を重ねようとします。治療効果と永遠に相反する抗がん剤の副作用や手術の合併症のようなリスクを誇大に煽り続けることで、攻撃対象をなにがなんでも「悪」と裁こうとします。場合によっては、陰謀論までも持ち出します。

その歪み、ひずみを埋めるために、なぜか論理だけはものすごく発達し、いつも相手を論破するということに囚われるのです。

論理一辺倒は「思想」のことを指します。近藤言論は上述してきたように、決して医療の姿などではありません。むしろ個人的「原理主義」と言い換えてもよいでしょう。

 

「がん」に対して、そのような歪んだ情報を盲信してしまい、それが前提として定着してしまうと、誤った方向に容易に引っ張られてしまいます。それがさらに進行すると「洗脳」になるでしょう。そうならないためにも、自身の頭で客観的にとことん考え、性急に一般化された「胡散臭い」ものに対して批判的にみることが大切です。

そのような思考を持つことは、何も「がん」に対してだけではありません。自身の仕事や生活、政治や社会のことを考える時にも同様なことがいえるはずです。ただし、人生を一変させてしまう病気「がん」のことをしっかり考えるということは、自身の人生について熟考するということにも繋がるので、より健全であって欲しいと願うわけです。

 

近藤氏がこれまでの十数年間、どれだけまずい言論活動を繰り返してきても、医師会や各種学会の代表者たちは、頑なまでにだんまりサイレントを保ち続けてきました。そのふるまいの理由は、「無視をしておけば、そのうちなんとかなる」「面倒くさいので、異質なものにはあまり関わりたくない」ということなのでしょう。

声を挙げないサイレントは、思考を放棄しているに等しいと中西氏は述べています。まさにその通りであり、医師会や各種学会の代表者の方々にもあてはまるでしょう。歪んだ思想と対峙することで、より本来あるべき正しい事実 (ファクト) や健全なリテラシーを守ることを考えるべきだと思われます。サイレントはむしろ罪であり、美徳でもなんでもありません。

話は変わりますが、某近隣諸国によって、領空や尖閣・小笠原諸島海域が平然と侵されても、国民を拉致・誘拐されても、黙して祈っていれば事が治まるわけがありません。リスクを見て見ぬふりをし、対立を避け続けることは「滅びの哲学」を意味するでしょう。

 

話を元に戻しますと、近藤言論は実際には多くの患者、多くの不慣れな一般の方たちに強い影響力を持ち続け、いまだに払拭される気配はありません。ある意味、手術や抗がん剤は悪であるという「空気」を作り出してしまったともいえるでしょう。評論家の山本七平氏による著作『空気の研究』(文藝春秋 1983年) で、「日本では空気ができてしまうと、みんなでそっちのほうへ行ってしまう。戦争がいい例だ」と記しています。

論理のプロセスを巧妙に操作し、どこからか都合のよい情報のみを調達してくることで、「がんは放置がいちばん」という空気を作り上げてしまうとどうなるでしょうか。現在でも実際の現場では患者・医療スタッフ双方にとってしばしば混乱が生じているのは明白です。

 

「先に結論ありき」の逆算によって、自分の都合のよい理屈のみで組み立てられた近藤言論は、すべて予定調和式になっています。それはある意味、「最強」と呼べるかもしれません。なぜならば、都合のよいデータしか登場しないからです。ほかの都合の悪いことはすべて排他的に「悪」と裁けばよいわけですから。

しかし、未知で不慣れな人間は弱いもので、「慶應義塾大学医学部」というブランド肩書きをもつ医師によって、教養を語る立派な出版社から立て板に水を流すように数字や論理を畳みかけられると、すっかり相手のペースに巻き込まれてしまいます。自身の頭で、「それって本当なの?」と懐疑的に考える前に、「そうかもしれない」と変に納得させられてしまう罠があります。そればかりか「きっとそうに違いない」という盲信にまで発展してしまいます。

 

まとめますと、近藤誠理論の本質は、勝ち負けを争う「ディベート」用につくられたゲームであり、目の前にいる患者さんのためににつくられた利他の医学的論理ではないということです。都合のよい数字や論文データを駆使することで、相手の反論を抑え、ただ「ディベート」に勝つことだけを目指しているようにみえてなりません。近藤言論に共感できる情感や誠実さ、優しさなどを微塵も感じることができないのは上述してきた理由によるものだと思われます。

 

すでに結論の「落としどころ」「着地点」が決まっている、倫理を欠いた見事な「やらせ理論」に対して、その「胡散臭さ」をそろそろ嗅ぎ分けなくてはいけない時期がきているような気がします。

 

近藤誠氏の川島なお美さん記事に思うこと -追記-

現在発売中の週刊新潮 (11月26日雪待月増大号) にて、ある「ふとどき者」についてコメントさせていただきました。この新潮記事にみられるように、近藤誠理論は思想や信仰のようなオカルトの類として取扱うのが賢明でしょう。医学枠として議論すると厄介なだけです。

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<週刊新潮 (11月26日雪待月増大号) より>

 

近藤氏は、川島なお美さん不在をよいことに、ご自身の視点から一方的に語っているだけですが、川島さんご本人は、患者立場として近藤氏のことを実際どのように思われていたのでしょうか。最期まで病気と闘われていた最中に、近藤氏から受けたセカンドオピニオンについて本当に納得のいくものだったのでしょうか。

現在となっては闇の中ですが…ひとつ言えることは、近藤氏の教えに従ったがゆえに犠牲者を生み出してしまったことが世に明らかとされた場合、彼自身、そして彼とパートナーシップを築いてきた出版社はどのような「倫理的・人道的責任」を負うつもりなのでしょう。

 

ぼくは『ラジオ波なら手術をしないで済むし、1ショットで100%焼ける。体への負担も小さい。そのあと様子を見たらどうですか?』と提案しました。『手術しても十中八九、転移しますよ』ともお伝えしました。むしろ手術することで転移を早めてしまう可能性もあるからです」

川島なお美さん 手術遅かったとの指摘は間違いと近藤誠医師│NEWSポストセブン

 

東大病院を中心としたオールジャパン・データ (Y. Sakamoto, et al. Cancer 2015 Epub) によると、発見当初の川島さんケースもそうだったかもしれない、大きさ 2cm 以下の「肝内胆管がん」を手術して転移した割合は、「27 例中 0 例 (0 %) 」でした。どこが「十中八九」なのでしょうか。とんでもない説明を川島さんにしていたようです。

 

肝内胆管がん手術は「合併症も含めてバタバタと亡くなっていく」「メスを入れたところにがん細胞が集まり、急激に暴れ出すことが多々ある」(文藝春秋 十一月号より)

 

危険だぞ、怖いぞ、と数字を一切示さないで誇大に恐怖を煽っていますが、これも本当なのでしょうか。ちなみに、手術をした長期生存成績を実際に示しますと、

【5年生存率】 Stage I: 100%, Stage II: 約70%, Stage III: 約50%

という数字です (Y. Sakamoto, et al. Cancer 2015 Epub)。これは新潮記事にも示しましたが、もし万が一、近藤氏の言う通りに手術がバタバタ死ぬ危険なものであるならば、

【5年生存率】 Stage I: 0%, Stage II: 0%, Stage III: 0%

となるはずです。

根拠もなく観念を押し付けるのみで、医学的に完全に誤ったことを公言しているのです。なぜそうまでして、日本ならではの緻密な外科学を貶めようとするのでしょうか。

 

ある立場を長年とり続けているうちに、自身に都合のよい情報だけが見えるようになり、都合の悪い情報は排除してしまう、そのような心理メカニズムを「確証バイアス」といいますが、近藤氏の言論にはそれが顕著にみられます。

軽率な一般化によって、ステレオタイプな物の見方をいったんしてしまうと、もはやその考えを変えられないため、それを打ち消すような情報にはまったく目が向かなくなってしまうわけです。そして、ヒエラルキーの頂点にいると錯覚してしまいます。

「悪質な一貫性」

医師がそのようなバイアスに囚われてしまうと、非常に危険で厄介です。

 

近藤氏の言論活動の根っこにあるのは「医学」ではなく、ただの「思想」なのだと思います。専門的な用語や数字を並べて「医師」という立場を取りながら、「医学」と「思想」というふたつを巧みに使い分けているところが稀代のトリックスターである所以なのでしょう。

「思想」であるならば、表現は自由なのかもしれません。しかし、「医師」として患者さんを目の前にして語るのであれば、倫理的なルールを絶対に遵守するべきです。それが不可能ならば、都合よく「医師」の肩書を利用するべきではありません。

 

たった一度、わずか30分程度話しただけの医師が、文藝春秋記事にみられる

「法律上、亡くなった方は医師の守秘義務の対象ではなくなりますが」

という前提を置いて、川島さんの個人情報をベラベラと公で語り出すのも、法に抵触しないから許されるということではなくて、「医師として倫理的にどうなの?」という問題なわけです。

倫理は普遍性を帯びています。古くは、『ヒポクラテスの誓い』において、

「治療の機会に見聞きしたことや、治療と関係なくても他人の私生活について洩らすべきでないことは、他言してはならないとの信念をもって、沈黙を守ります。」

と述べられています。それを引き継ぎ、1948年に採択されたジュネーブ宣言の中でも、医師の守秘義務について、

「私は、私への信頼のゆえに知り得た患者の秘密を、たとえその死後においても尊重する。」

と述べられているのです (日本医師会ホームページ「医師の守秘義務について」より)。

 

彼の提唱する「放置療法」の実態は、リスクを極端に煽ることで、治療の概念自体をイデオロギッシュに否定し、その背反にある "治療しない=放置" を推奨しているだけのことです。

しかし、「放置」自体につていの利益・不利益については何も確かめられていません。加えて、治療による不利益を誇大に強調されますが、放置による不利益については決して何も語ろうとしません。

近藤言論の根本にあるのは、都合のよい論文データや数字の切り取り、貼り付けのみで彩られた 「egoism(エゴイズム)」であり、患者さん(利他)不在なわけです。そんなところに倫理など宿るはずもありません。

 

そして、「医療倫理の欠如」は、別に近藤氏だけに限った話ではないということです。彼のような医師を生み出す不健全な病理がこの国にはいたるところに存在しています。

サイエンスをしっかり理解できないメディアや、思考停止から脱却できない国民性につけ込むことで、倫理が欠如した医師が増殖を続けています。

 

健全ながん医療現場、理性ある医療従事者をイタズラに妨げる異質な思考破綻に対して、批判的になれる賢さを読者ひとりひとりに是非とも身に付けて欲しいと願うばかりです。

 

大場先生、がん治療の本当の話を教えてください

大場先生、がん治療の本当の話を教えてください

 

 

 

 

ある東大医師の不十分な論理構造 -後編-

後編となります。

(上氏) 私は、彼女の受けた治療は合理的だったと思う。彼女が自分で考え、自分で選択した、彼女らしい闘病だったのではなかろうか。

非常に耳障りのよい発言にみえますが、一体どこを向いて、誰に賛同を求めておられるのでしょうか。「合理的」とは後付けの主観的解釈であり、治りたいと前向きに願う患者さんにとって、建設的なメッセージになるとは思えません。

以下、多くの問題点を具体的に指摘していきます。

 

(上氏) 折角、検診を受けたのに、治癒が難しい癌が見つかってしまった。彼女にとっては「死刑宣告」に近かったかもしれない。がん検診は、時に「藪蛇」になる。

 上先生、ちょっと待ってください。川島さんが任意で受けていた人間ドックで偶然に発見された、

<無症状で2cmサイズ>

で発見されるような肝内胆管がんは本当に稀であり、治癒を目指せていた可能性は非常に高かったと言えます。

それを、治癒が難しいと決めつけたうえで、論点がいきなり飛躍して、

(上氏) がん検診のこのような陰の側面についても、十分に認識しなければならない。

と結論づけるのは、川島さんのケースに潜む多くの問題を議論するうえで本質から完全にずれてしまっています。

そして、

(上氏) 治癒の期待が低いのに、手術の侵襲に苦しんだ

治癒の期待が本当に低かったのかどうかは、これまでのブログ記事をご参照していただきたいのですが、「侵襲に苦しんだ」とは、一体どのような事実に基づかれているのでしょうか。

彼女の「激痩せ」報道の真相は、再発したがんの進行による「悪液質」状態が原因であり、手術との因果関係どころか相関すらないはずです。そして、抽象的に侵襲 (ストレス) とは言いますが、具体的に何を指しておられるのでしょうか。

 

 (上氏) 胆管がん患者の一部は長期生存する。ごく稀に治癒する患者もいる。

一部?ごく稀?しっかりと数字で示すべきだと思います。

また、長尾和宏氏をはじめとするメディア力の大きな医師たちが口を揃えて、「胆管がん=予後不良」と決めつけてコメントされています。

しかし、「胆管がん」と一言でいっても、「肝内胆管がん」「肝門部胆管がん」「(遠位) 胆管がん」に大きく区別をして考えなければいけません。また、がん本体の状況、リンパ節転移の状況、遠隔転移の状況、根治手術できる/できない によって、その予後はすべて変わってきます。すべての「胆管がん」をひっくるめて「予後不良」という表現の中には「各論」がすべて無視されていると言えるでしょう。

 

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例えば、「料理は美味しい」と言われて、賢明な方ならば「えっ?」と思われるはずです。なぜならば、漠然と料理という抽象で語っているからです。そこで、まずは例えば和食、中華、フレンチ、イタリアンというように、大きな枠組み (フレーム) を作って具体的に考えようとするはずです。さらに、一言で和食とはいっても、鮨なのか、割烹料理なのか、あるいは焼鳥なのか、などといったさらに具体的な枠組み (フレーム) が必要になってきます。そのような作業を繰り返すことで、より具体的な「各論」に迫っていこうとするはずです。

そう考えますと、

「胆管がん=予後不良」

を前提として議論されている医師たちはみな、抽象的にフワフワと語っているだけということになります。まさに「料理は美味しいよね」「うん、そうだよね」という具合です。

以下、「胆管がん」という疾患を考えるうえで、最低限必要となる診断ストラクチャーを示します。

 

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明確にしておくべき事実はこうです。

<転移のない2cm以下の肝内胆管がん=予後良好>

 

(上氏) 術式として、開腹手術と腹腔鏡手術がある。効果に大きな差はないが、前者の方が侵襲は大きく、皮膚に手術痕が残る。一方、後者は、侵襲は少ないが、一定の確率で事故を起こす。

 (上氏) 両者はリスクとベネフィットがトレード・オフの関係にある。最終的には患者が自ら決めるしかない

これまでのブログでも示してきたように、術式についても「各論」で議論することが必要です。「肝内胆管がん」を対象とした時に、

「開腹手術と腹腔鏡手術の間に、効果 (ベネフィット) について大きな差はない」

そのような根拠はどこにもないはずです。効果 (ベネフィット) の担保がなければ、腹腔鏡手術と開腹手術を同等に扱ってはいけないのです。そのあたりの詳細を知らされないで、何も知らない患者さんは最善の選択が果たしてできるのでしょうか。

 (上氏) 彼女は腹腔鏡手術を選択した。これは彼女が女優だったからだろう。体にメスを入れるのは最小限にしたかったのだろう。そう考えれば、彼女が多少のリスクを冒してでも腹腔鏡を選択したのは合理的だ。主治医も、その意向を尊重したのだろう。

具体性を省いて「合理的な選択」と述べるのはいかがなものでしょう。この件に関しては、長尾氏も同様な意見をされているようです。

川島さんは、がんを「是が非でも治したい」と願っていたからこそ手術を受けられたはずです。その目標を差し置いてまで、キズがより小さくて済む、退院が早まる、という短期的なマイナー目標を優先させるようなことはあるでしょうか。

「がんの治癒」という何よりも優先されるべき最重要なメジャー目標が担保されていない腹腔鏡手術を許容してしまったのは、主治医の説明責任に問題があったとしか思えません。

 

 (上氏) さらに、彼女が合理的だったのが、再発してからの対応だ。一部の方は民間療法に走ったことを批判するが、私はその意見に与さない。

 (上氏) ごく一部の患者で抗がん剤が効くことがあるが、基本的には無効だ。私が患者なら、緩和医療の一環としての放射線治療は兎も角、抗がん剤治療は受けたくない。

 (上氏) ビタミンCや電磁波には「副作用」はない。勿論、効果も期待できないが、精神的な救いを求め、民間療法を受ける人がいても不思議ではない。このような行為を「エビデンスがない」と言って批判するのも大人げない。

ご自身の主観はともかくとして、「胆管がん」に対する抗がん剤治療は基本的に無効ではなく、状況によっては推奨されないこともあるし、効果が患者さんにとって等しく実感できない場合もあるということです。

今現在、胆管がんの治療のために抗がん剤治療を一生懸命頑張っている患者さんたちは、これらの発言を聞くと不安になるはずです。

以下に各論を示します。実際に引き出しは少ないとはいえ、エビデンス・ベースの数字をあえて示すと、病気と上手に共存できる寿命期間は、GEM (ジェムシタビン) のみで中央値8ヶ月、それにCDDP (シスプラチン) を加えた併用療法によって約12ヶ月、S-1 (エスワン) との併用療法では12.5ヶ月というものがあります。

川島さんの再発形式に対して、これらの治療成績が当てはまったのかどうかは別として、上氏の言う「基本的に無効」だと言い切るのは、近藤氏のいう「抗がん剤を受けると致命的な毒性によって、余命ははるかに短くなっていた可能性」(『文藝春秋』記事より) を支持しているように取られても仕方ありません。

はっきりと申し上げておきたいのは、副作用を強調して抗がん剤を「悪」と裁くことで、治療を受けないことを推奨するニュアンスは間違っているということです。

今年の7月に無念にも再発してしまい、10月にお亡くなりになるまでの約3か月間という短い人生は、女優としての高潔な精神力で駆け抜けられたのだと思います。

一方で、見方を変えますと、もし抗がん剤を受けたとして効果がみられていたならば、約3か月間が、舞台に立ちながら約1年近くまで頑張れたという可能性も、ひょっとしたらあったかもしれません。川島さんに、これらの情報が漏れなく丁寧に説明されたうえで、それでも抗がん剤は受けたくないという意思を示されたのであれば尊重されるべきです。

 

ビタミンCや電磁波のような民間療法を批判することに対する「大人げない」発言に関して、いくら表現の自由があるとはいえ、本来、正しい医学教育を啓蒙するべきお立場にいるはずの医師の発言としては、なんだか残念であるとしか言いようがありません。

 

臨床現場から離れられて久しいのかもしれませんが、過去には白血病やリンパ腫を患った患者さんたちを治してあげたいと、一生懸命努力されていたかと思います。しかし、この記事を読む限りにおいては、がん患者さんを目の前にしたときの前向きな論理や信念が何も伝わってきません。

一般に対するがんリテラシー向上のためにも、メディア力のある医師だからこそ、ご自身のプロフェッショナリズムの範囲で本分をまっとうするべきでしょう。不慣れな領域にまで「各論」抜きで自己流で言及してしまいますと、客観性を欠いた内容であってもご自身は気づかないままになってしまいます。

下記を示して、本日のブログを〆たいと思います。

「医師が医学的知識を公衆に対し伝達し説明する際には、まず学問的に十分な根拠をもった代表的意見を提供するように努めるべき」(医師の職業倫理指針より引用)

 

 

ある東大医師の不十分な論理構造 -前編-

川島なお美さんのご病気について詳細に触れることで、

「尊い命が帰ってくるわけではないから、無意味な議論だ」

「単なる水掛け論に過ぎない」

というコメントをいただきました。確かに、そのような側面もあるかもしれません。しかし、エモーショナルに「なんとなく論」に落とし込むと、その後には何のフィードバックも生まれません。ひとつひとつの反省や検証を積み重ねてきたことで、今の医療は成り立っているからです。

 

そのようなコメントを強調する人ほど、どこかで「他人事」になってはいないでしょうか。思考を停滞させてはいないでしょうか。

川島なお美さんのエピソードをふまえて、このブログで訴えたいことは、今後「がん」という病気が自身の現実 (リアル) として訪れた時に、正しいベクトルで自身の「がん」のこと、自身の「人生」のことを、面倒くさがらずに考えて欲しいという願いがあるからです。

 

前々回のブログで取り上げました、豊富な肝臓のリンパ流の一部 (①肝十二指腸間膜リンパ流、②胃小彎リンパ流) の解剖詳細図を示します。これらの解剖をしっかり理解したうえでないと、「肝内胆管がん」を治す手術は成り立ちません。当然、病気本体をラジオ波でただ焼いたらよいというオピニオンは、医学的な誤りなわけです。それでも、焼いても「いいんじゃない」という主観・嗜好は、「思考停止」以外のなにものでもありません。

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 (リンパ系局所解剖カラーアトラス ♦癌手術の解剖学的基盤♦佐藤達夫 編集 南江堂 より引用)

そして、川島さんがどちらの病院で手術を受けられたのかは知りませんが、この病気に対する手術を腹腔鏡で行うのは実際のところ不適切といえるでしょう。胃がんや大腸がんで実施されている腹腔鏡手術とはまったく別枠のものであり、完全に分けて考える必要があります。なぜならば、難易度の差もさることながら、手術操作のパターンが存在しないからです。

 

肝臓という臓器を直接手で触れながら、解剖を3次元 (3D) として扱うことで、個々の「がん」について取り残しのない手術を目指すことが可能になります。そして、前図で示したような豊富なリンパ流の解剖を意識しながらのリンパ節郭清操作は、開腹した方がより確実です。また、腹腔鏡で行う手術が、開腹をして行う手術の質 (quality) と同等レベルだとする根拠はどこにも存在していません。創部 (キズ) が小さくて済むというマイナーな目標のみで、「生存利益」が何ひとつ担保されていない腹腔鏡手術が選択されるのは倫理的にマズイのではないでしょうか。メジャーな目標は必ず「治癒」であるべきです。

 

また、川島さんの病気が発見された当初に、適切なタイミングで適切な手術を受けていれば、治癒できたかもしれないという問題提起について、最近、日本から「肝内胆管がん」の手術成績をまとめた良質な論文がトップジャーナル誌 ‘Cancer’ で報告されましたので紹介します。著者は東大病院の阪本良弘先生です。

おそらくは、この病気の肝臓手術に関して、日本のみならず世界のトップレベルであることは間違いない、東大病院肝胆膵外科 (國土典宏 教授) や日大病院消化器外科 (高山 忠利 教授) の症例も含まれているデータが論文でオープンにされました (Yoshihiro Sakamoto, et al. Cancer 2015 Epub)。

 

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この論文で提唱されている「転移のない肝内胆管がん」の扱いとして、重要な予後予測パラメータは、①個数は 1 個かどうか、②サイズは 2cm をカットオフ値として大きいかどうか、③血管 (動脈、門脈)・胆管への浸潤があるかどうか、という「問い」です。

川島さんの「肝内胆管がん」は、文藝春秋記事の文面からは、③の情報がありませんが、①②はおそらく満たしていますので、少なくとも「T2」という分類に当てはまります。③のパラメータが無ければ「T1」であった可能性もあるわけです。以下、手術成績を示します。

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 前々回のブログでも示した、ジョンズ・ホプキンス大学 (米国) からの報告と比較しても再現性は失っていません。また、発見当初、もし「T1」という診断であったとしたならば、手術によって5年生存率は「100%」だということになります。

しかし、メディアからは、手術を受けた当時は5年生存率は「50%」と報道されていました。これは、おそらく5か月間の放置により、悪くても「T2」までにとどまっていたものが、急速に「T3」以上にまで悪化してしまったという事実を示しているような気がします。

だからこそ、近藤誠氏の間違いだらけのセカンドオピニオンを受けたこと、主治医からの丁寧な説明がなかったことが悔やまれるわけです。

 

これら医学的な「各論」が存在しているにもかかわらず、とてもおかしな事を仰る医師がいます。川島さんのご病気について、彼女が選んだ「がん治療」は間違っていなかった、という記事を寄稿された上昌弘氏です。

http://ironna.jp/article/2299

東京大学医科学研究所に勤務されている東大医学部出身の元血液内科医で、多くの肩書を有し、メディアでも頻繁に登場されている大変ご高名な先生です。

そんな彼の川島さん記事に目を通しますと、随所に根拠の乏しい「不十分な論理構造」がみてとれます。メディア力の大きな医師が、このような表現を平然とされるのでは、一般のリテラシーが育まれることは絶望的でしょう。次回のブログで、その不十分さについて具体的に述べてみることにします。

 

 

 

 

何から何まで語ろうとする医師への違和感

このブログで、川島なお美さんのことに触れたことが反響を呼び、『女性セブン』(小学館) から取材を受けた記事が現在掲載中です。さらには、総合オピニオンサイト「iRONNA」で『誰が川島なお美の命を奪ったのか』というテーマとして、詳細な記事を書かせていただきましたので、よかったらそちらもご覧ください。

http://ironna.jp/theme/410

 他にも様々な分野でご活躍中の医師たちが、それぞれの切り口で寄稿されているのですが、率直に申し上げると、どれもこれも各論を極力省き、耳障りのよい「なんとなく論」に落とし込んでいるということです。そんなことでは、水掛け論に終始してしまいます。各論にこそ、プロフェッショナリズムが問われるのです。

 

彼女の患った「肝内胆管がん」患者のことなど、現場でまともに直接診たこともないはずの専門外の医師たちが、「胆管がん」という大きな枠 (フレーム) で教科書記述的な総論を述べ、まるで何でも知りえているかのようにみせながら、自身の得意な論点に話題をシフトさせて主観の連打を繰り返しています。

漠然と「胆管がん」という疾患群としてフワフワ議論をしても、患者さん個人には何も意味を持ちません。プロならば、"手術が可能な「肝内胆管がん」" として議論するべきでしょう。知らないのであれば、自制するべきです。

 

私は、以前から、何から何まで語りたがる医師に対して違和感をもっていたので、この場で少し自由にモノを言わせていただこうかと思います。

 

よくあるのは、人の「死」について上から目線で語りたがる医師たちへの違和感です。おそらくは、「緩和ケア」に従事している医師たちの中に、そのようなクセが目立ちます。あるいは、臨床現場で患者など診ているはずもない基礎研究者の類にもみられます。最近では、東大病院集中治療部教授の矢作直樹氏のように、現場不在で何をしているかと思えば、意味不明な「死後の世界」を語っているような危ない者もいます。

 

作家や思想家としてではなく、医師という肩書きで上段から率先して語りたがる「死」とは何でしょうか?「死」が存在する現場に携わった経験があると、ヒエラルキーの頂点に立ち、まるで人の「死」をすべて理解したような錯覚に陥っているだけではないでしょうか。

私は、それらすべて「傲慢な主観」だと思っています。

医師としての立場からみた患者さんの「死」と、患者さんのご家族からみた「死」、患者さんご本人の「死」はすべて異なるはずです。

「がん」という病気に携わる医師は、実際に「死」というリアルにたくさん遭遇します。だからと言って、人の「死」について偉そうに講釈をたれるほどの立場なのでしょうか。

 

私もこれまでに、数えきれない患者さんの「死」をみてきました。患者さんが生きている時には、手を差し伸べ、一生懸命ベストを尽くしてあげたいなとは思っても、「死」だけを切り取って語り尽くすなど到底できるものではありません。

臨床医として言えることは、医師が一人の患者さんを看取る場とは、自らが行った診療行為が、患者さんにとって生きている時に本当に幸せであったのかを自問自答する場でもあります。

ひとりひとりの「命の尊厳」を体感するからこそ、患者さんがお元気だった時に、もっとよいことが何か出来たのではと反芻して考えるのです。

 

さて、話は変わりますが、がん患者さんが最期を迎える時期には、必ず何らかの形で「緩和ケア」を受けているはずです。それは、患者さんに残された人生の大切な時期に必要とされる重要な治療です。

様々ながん治療は、この「緩和ケア」を基本として成り立っていると言っても過言ではありません。これを早い時期から介入させることの重要性は、昨今のがん医療に携わっている医師たちのほとんどが理解しているはずです。

言いかえますと、「緩和ケア」は何も緩和ケア医のみが専門として扱う専売特許ではなく、外科医も内科医も、薬剤師も看護師も、がん診療に携わっているすべての医療スタッフたちは皆、多かれ少なかれ「緩和ケア」を普段から実践し、より質の高い「緩和ケア」の実践を目指して自己研鑚を怠ってはいないということです。

 

一方で、少し見方を変えますと、「緩和ケア」のみを扱っている医師とは、患者さんの治療人生の旅の中で、最後のプラットホームに立っている医師 (後医) ということになります。

しかし、「後医」だからといって、なんでも知っている「名医」ということではありません。ところが、この分野に限っては、学術的に従事している志の高い医師も当然いらっしゃるのですが、誰でも自己流でコミットしやすい場 (ヘテロ集団) だともいえます。「死」というテーマも含めて、個人の観念やイデロギーのみで安易に語られやすいということです。時として、変に「自身過剰」になる者も現れます。

 

話を元に戻しますが、今回の「iRONNA」で寄稿されている医師たちにみられるように、耳障りのよい中庸に落とし込むことは、現場の最前線にいる医師たちからみると、どうしても違和感をもってしまうのではないでしょうか。なぜならば、冒頭でも指摘したように、医師としての「プロフェッショナリズム」を大して感じないからです。

人生を賭けて習得した教育・サイエンスが礎にあるのが医学であり、ひとりひとりの患者さんに決して手を抜かず、医学をできるだけ安全に実践するのが医療だと思っています。決して、机上で一般向けに聞こえのよい評論をすることではないのです。

 

最後に、講演でよく使用させていただいている、「医師としてのプロフェッショナリズム」を説いたスライド図を示して、本日のブログを〆たいと思います。

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(自戒も込めて) 世間で声の大きい医師たちよ、あなたがたにこれらが本当に備わっていますか?