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大場大のブログ "セカンドオピニオン"

がん治療専門医による、あくまでも個人的な「つぶやき」ブログ

近藤誠理論の本質はディベート用のゲーム

先日読んだ『本質を見抜く「考え方」』(中西輝政 著) の中に、多くの共感や学びがありましたので、今回はそれらを参考にさせていただきながら、近藤言論に潜む危うい「本質」を考えてみます。

(文庫)本質を見抜く考え方 (サンマーク文庫)

まず一般的な話として、さまざまな言い分、見解などと接した場合、素直さをもって物事を考えれば考えるほど、いったいどの結論が正しいのか、わからなくなってしまうことはないでしょうか。とりわけ、それが「がん」という不慣れな難しいテーマになるとなおさらだと思われます。なぜならば、「正しい」と判断できる前提が、他のテーマと比較して個々に定着していないからでしょう。

 

もうご存知かもしれませんが、物事の論理思考のパターンとして教科書的に取り上げられるのが、①演繹法 (三段論法) と ②帰納法 です。

 

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で前提となるエビデンスや経験的根拠は、によってつくられます。そので抽出されるサンプル (対象) や経験に恣意や偏り (バイアス) があると、で必要とされる前提が歪んでしまいます。そうなってしまうと、いくら考えているつもりでいても、いつまでたっても共感の得られる正しい結論に到達することは不可能となるはずです。

 

近藤氏のこれまでの活動は、多くの出版物を通じてそのような歪んだ前提を、未知や不慣れな多くの頭に刷り込んできたともいえます。様々な出版社から著作を量産していて一見凄いようにみえますが、それらのほとんどはパターン化された重複内容となっています。各出版社の編集工夫もさぞかし大変でしょう。マーケットは、相も変わらず前提の備わっていない国内の一般大衆のみに向けられ、同じことを繰り返し繰り返し復習させている印象です。

彼の言論が「医学」枠として本当に真理に近いものであれば、われわれ医療従事者サイドも何らかの納得を見出せるはずです。グローバルでもきっと関心が高まるでしょう。しかし、残念ながら素直さをもってどのように眺めてみても異質なものにしかみえません。

 

がん医療の実践において、もちろん上記のような思考法だけでは成り立ちません。患者さんは、机上の法則や定理に従うものではありませんし、調子のよい数字やデータで操られるものでもありません。

臨床医学を考えるうえで絶対に無視をしてはいけない独立した礎があります。それは「医の倫理」です。なぜならば、医療の対象が救いを求めている「人」であり、尊い「命」だからです。

しかし、「がん」が他人事である方たちにとっては、それを抽象的にとらえてしまい、その重要性がいまひとつピンとこないこともあるかもしれません。

前回のブログでも示しましたが、近藤言論の最大の問題点は「医の倫理」が欠如しているということです。「医の倫理」をないがしろにしてしまうと、そこは客観性を失った無法地帯となってしまいます。見かけ上、テクニカルにいくら理屈が成り立っていてもです。

 

先の中西氏の著作によると、18世紀最大の日本古典研究家であった、本居宣長 (もとおり・のりなが) は、「世の物知り」を嫌っていました。なぜならば、「考える」とは物事に対する単に知的な働きかけではなく、対象と親身に交わることである、と解釈していたからのようです。言い換えますと、情報の羅列や知識・理論を振りかざすのではなく、世の中のさまざまな現象と虚心坦懐に向き合うことから始まるということだ、と著者は述べています。

本居宣長のいうところの「対象と親身に交わること」とは、医師に当てはめると、まさに患者さんと誠実に向き合う「医の倫理」に相当します。

 

以下のエピソードは、慶應大学病院時代に近藤氏に寄り添って働いていた、ある放射線科医から最近聞いた話です。近藤先生の臨床姿勢は、とにかく患者さんに冷たい、入院している患者さんの顔もろくにみにこない、がん終末期患者さんの看取りも研修医任せのことがほとんどだった。論文をたくさん読み込むことには時間を費やしても、ベッドサイドに立って患者さんを丁寧に診ようとしない。」昔から患者さんを机上の理屈のみで扱うクセがあったというものでした。

「医の倫理」とはどのようにして築かれるのか。決して教科書や医学教育で学べる認知的なものではありません。個人的な解釈ですが、臨床現場で患者さんに直接、手を差し伸べながら真摯に向き合うという実践の中で育まれるものだと思っています。そう考えますと、近藤言論になぜ「医の倫理」が宿らないのかは賢明な読者にはすぐにおわかりでしょう。

 

近藤氏は、「がんとは、こういうものだ」と容易に理屈のみで言い切ってしまいます。これは、ビジネスだからと平然とエセ医学を取り扱っても恥じない白衣を着た詐欺師たちにも共通しています。要するに、実際のがん患者さんのことを真の意味で知らないということです。

持論を何が何でも堅守するためには、理屈のうえに理屈を重ねようとします。治療効果と永遠に相反する抗がん剤の副作用や手術の合併症のようなリスクを誇大に煽り続けることで、攻撃対象をなにがなんでも「悪」と裁こうとします。場合によっては、陰謀論までも持ち出します。

その歪み、ひずみを埋めるために、なぜか論理だけはものすごく発達し、いつも相手を論破するということに囚われるのです。

論理一辺倒は「思想」のことを指します。近藤言論は上述してきたように、決して医療の姿などではありません。むしろ個人的「原理主義」と言い換えてもよいでしょう。

 

「がん」に対して、そのような歪んだ情報を盲信してしまい、それが前提として定着してしまうと、誤った方向に容易に引っ張られてしまいます。それがさらに進行すると「洗脳」になるでしょう。そうならないためにも、自身の頭で客観的にとことん考え、性急に一般化された「胡散臭い」ものに対して批判的にみることが大切です。

そのような思考を持つことは、何も「がん」に対してだけではありません。自身の仕事や生活、政治や社会のことを考える時にも同様なことがいえるはずです。ただし、人生を一変させてしまう病気「がん」のことをしっかり考えるということは、自身の人生について熟考するということにも繋がるので、より健全であって欲しいと願うわけです。

 

近藤氏がこれまでの十数年間、どれだけまずい言論活動を繰り返してきても、医師会や各種学会の代表者たちは、頑なまでにだんまりサイレントを保ち続けてきました。そのふるまいの理由は、「無視をしておけば、そのうちなんとかなる」「面倒くさいので、異質なものにはあまり関わりたくない」ということなのでしょう。

声を挙げないサイレントは、思考を放棄しているに等しいと中西氏は述べています。まさにその通りであり、医師会や各種学会の代表者の方々にもあてはまるでしょう。歪んだ思想と対峙することで、より本来あるべき正しい事実 (ファクト) や健全なリテラシーを守ることを考えるべきだと思われます。サイレントはむしろ罪であり、美徳でもなんでもありません。

話は変わりますが、某近隣諸国によって、領空や尖閣・小笠原諸島海域が平然と侵されても、国民を拉致・誘拐されても、黙して祈っていれば事が治まるわけがありません。リスクを見て見ぬふりをし、対立を避け続けることは「滅びの哲学」を意味するでしょう。

 

話を元に戻しますと、近藤言論は実際には多くの患者、多くの不慣れな一般の方たちに強い影響力を持ち続け、いまだに払拭される気配はありません。ある意味、手術や抗がん剤は悪であるという「空気」を作り出してしまったともいえるでしょう。評論家の山本七平氏による著作『空気の研究』(文藝春秋 1983年) で、「日本では空気ができてしまうと、みんなでそっちのほうへ行ってしまう。戦争がいい例だ」と記しています。

論理のプロセスを巧妙に操作し、どこからか都合のよい情報のみを調達してくることで、「がんは放置がいちばん」という空気を作り上げてしまうとどうなるでしょうか。現在でも実際の現場では患者・医療スタッフ双方にとってしばしば混乱が生じているのは明白です。

 

「先に結論ありき」の逆算によって、自分の都合のよい理屈のみで組み立てられた近藤言論は、すべて予定調和式になっています。それはある意味、「最強」と呼べるかもしれません。なぜならば、都合のよいデータしか登場しないからです。ほかの都合の悪いことはすべて排他的に「悪」と裁けばよいわけですから。

しかし、未知で不慣れな人間は弱いもので、「慶應義塾大学医学部」というブランド肩書きをもつ医師によって、教養を語る立派な出版社から立て板に水を流すように数字や論理を畳みかけられると、すっかり相手のペースに巻き込まれてしまいます。自身の頭で、「それって本当なの?」と懐疑的に考える前に、「そうかもしれない」と変に納得させられてしまう罠があります。そればかりか「きっとそうに違いない」という盲信にまで発展してしまいます。

 

まとめますと、近藤誠理論の本質は、勝ち負けを争う「ディベート」用につくられたゲームであり、目の前にいる患者さんのためににつくられた利他の医学的論理ではないということです。都合のよい数字や論文データを駆使することで、相手の反論を抑え、ただ「ディベート」に勝つことだけを目指しているようにみえてなりません。近藤言論に共感できる情感や誠実さ、優しさなどを微塵も感じることができないのは上述してきた理由によるものだと思われます。

 

すでに結論の「落としどころ」「着地点」が決まっている、倫理を欠いた見事な「やらせ理論」に対して、その「胡散臭さ」をそろそろ嗅ぎ分けなくてはいけない時期がきているような気がします。