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大場大のブログ "セカンドオピニオン"

がん治療専門医による、あくまでも個人的な「つぶやき」ブログ

'がん放置理論' の蔓延は悪魔の沙汰 -月刊誌『Voice』掲載記事より-

最新刊 『Voice』 (PHP研究所) 4月号に寄稿させていただきました。若干 Voice 的アナロジーも含めていますが、その拙記事を本ブログでも (注; 実掲載とは若干異なります) アップさせていただきます。

巷に頻繁に登場する、 '近藤理論' を中心に据えた議論について、それに注目すること自体が結局のところ出版ビジネスの術中にはまっているのではないでしょうか。タイトルは辛辣ですが、その理由については本内容をみていただけたらと存じます。

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ファウストは、悪魔メフィストフェレスに向かって言います。「悪魔は利己主義で、悪魔のただほど高いものはないはずだ」と (ゲーテ『ファウスト』より)。

 

「がん」は人生を一変させる暗い病気です。ひとたび、「がん」が厳粛な現実として訪れた際には、ひとりひとりが何よりも重要な意思決定をしなくてはいけません。しかし、インターネットやSNSの普及などによって、情報の流動化が著しい現代社会においても、がん医療に対するリテラシーが向上しているようにはみえません (この問題につて、「市民のためのがん治療の会」HPに寄稿させていただきましたので、よかったらそちらもご覧ください 市民のためのがん治療の会 もっと市民のために シリーズ がん医療の今 )。

そして、その病理につけ込むことで様々なエセ医学や不誠実ながんビジネスは温存され続け、最近では増々活気を帯びているくらいです。むしろ情報が多すぎるがゆえに患者は翻弄されていると言ったほうがよいかもしれません。その中でも、一際異彩を放ち、今なお強い影響力を持っているのが、医師・近藤誠という人物の存在でしょう。

「がんは放置がいちばん」「手術は受けるな」「抗がん剤は効かない」「医者に殺される」「がん検診は無意味」などなど、刺激的なフレーズをちりばめた著作の数々はベストセラーとなっています。

それら一連のものを「近藤理論」とメディアからもてはやされていますが、医学的に検証されているものは何一つなく、また客観性のある医学論文の形にもなっていません。したがって、単なる個人の主義・主張でしかないことに今一度留意しておく必要があります。

しかしながら、当の本人はそんなことはお構いなく、内容が重複していても手を変え品を変えながら、多数の記事や著作物を継続的に世に放つ様。それはまるで布教活動の如しです。最近では自身をモデルとした問題漫画『医者を見たら死神と思え』(ビッグコミック 小学館) にまで精力的に着手し認知度アップを計っているようです。結果、心配や不安を抱えたがん患者に多大な悪影響を与えるのみならず、実際の医療現場でも少なからずの混乱を招いています。

もちろん日本には言論の自由があります。しかし、医師の立場として、現代の医療に対する頭ごなしの「否定」で塗り固められた観念の連打はいかがなものでしょうか。がん患者にとって、後戻りのきかない一度限りの命や人生の過ごし方に関わる重要な意思決定をしなくてはいけない時に、誤った判断材料になってしまうリスクが多分に生じてきます。

昨年10月に惜しまれながらこの世を去った、女優・川島なお美さんの闘病手記『カーテンコール』(川島なお美・鎧塚俊彦著 新潮社) の序章には、以下のようなメッセージが綴られています。「即手術しなかったのも、抗がん剤や放射線治療に見向きもしなかったのも先生 (近藤氏を指す) の影響かもしれません。でも、がんは放置さえすれば本当にいいのでしょうか?何もしないことが最良の選択なのでしょうか?検診にも行かない。がんを発見することも無駄。知らぬが花だ…。私はそうは思いません。(中略) がんと診断されたら放置するのではなく、その対処いかんでより健全で、充実した生き方が待っている。それは、私ががんになってみて初めてわかったことなのです。がんと診断された皆さん、決して『放置』などしないでください。まだやるべきことは残っています」

川島さんが患った肝内胆管がんは、診断された当初はおそらく治癒率が高かったであろう早期の状態でした。それにもかかわらず、近藤氏はセカンドオピニオンを求めた川島さんの病気について本来ある医学的な説明責任を怠り、彼の思想を押し付けるだけのものでした。適切なタイミングで適切な治療を受けることが叶わなかったことへの悔恨の気持ちが感じ取れます。

そうなると、医師が放つ言論としてはもはや個人の主義・主張の範疇を越えて、倫理的に大きな問題を孕んでいると言わざるをえません。

ここで、ご存じではない読者もいるでしょうから、近藤理論の根幹をなす「がんもどき理論」について要約してみますと、以下のようになります。

がんには「本物のがん」と「がんもどき」がある。しかし、前もって区別はできない。「本物のがん」はわずか1ミリくらいの大きさの時点ですでに転移している能力があるので、基本的に治療をしても無駄である。「がんもどき」は放っておいても、転移しない。下手に手術や抗がん剤治療などを受けると命を縮めるだけ。だから、いずれにせよ放置するに限る。

なんだか狐につままれたような話ですが、医学的観点を抜きにして考えてみると、極めてよくできたロジックと言えるかもしれません。患者さんがどのような転帰を辿ろうとも「ね、私の主張(がんもどき理論)の通りでしょ」と言うことができるわけです。「結論ありき」の逆算によって、自分の都合のよい理屈のみで組み立てられた近藤理論は、すべて予定調和式になっています。根拠を裏付けるための数字やデータは、都合のよいものしか登場してきません。ほかの都合の悪いことは伏せておくか、何かしら因縁をつけることで排他的に扱います。このように「最強」にもみえてしまう近藤理論の本質は、ひとりひとりの患者の時間、人生を無視した、詭弁でしかありません。

「がんを治したい」「自分らしく1日でも長く生きたい」「満足のいくレベルまで苦痛を取り除いて欲しい」といった、がん患者にとっての希望や願いには何も答えてくれません。これまでも、アナウンサーの逸見政孝さんや歌舞伎役者の中村勘三郎さんなど、がんで死去された著名人を必ず取り上げ、亡くなってしまった結果を前提として持論をうまく挿入しながら後付けで声を挙げるパターンを繰り返してきました。しかし、先の川島さんのケースに限っては、これまでと異なり、自らが直接関わったことによって、まさか当人から死後に非難を浴びるとは彼も予想できなかったのでしょう。

川島さんのケースに限らず、彼の言説を妄信してしまったがゆえに、本来救えたはずの患者が救えなくなった事例、もっと苦しまずに長く生きることが出来た事例は少なくないはずです。その元凶である近藤理論がこの先、虚偽として裁かれた場合、彼自身、そして彼の表現を厚く手助けしてきた出版社はどのような倫理的・人道的責任を負えるのでしょうか。

釈迦に説法のようで恐縮ですが、医師としてがん患者と向き合うことは、机上で評論したり都合のよい数字やデータを操ることではないはずです。近藤氏自身は安全地帯に居座り、治療によるリスクが怖いぞ、危険だぞ、と誇大に恐怖を煽るのみでそもそも医師として何一つ責任を負っていません。そして、論理一辺倒のふるまいは医学ではなく単なる「思想」でしかないということです。

最新刊の『がん治療の95%は間違い』(幻冬社舎新書)では、以下のような恐怖記述が山のように登場してきます。

<手術を受けた直後にバタバタと亡くなる> <胃の全摘術による術死は少なくない> <抗がん剤で急死する患者は少なくない> <毒性で苦しんで体力を落とし寿命を縮める効果しかない> <初回治療で亡くなるケースもある> <術後5年以内に亡くなる人のほとんどは実際にはがん死ではなく治療死である>などなど。

これらリスク頻度を一切数字で示すわけではなく、攻撃対象を何が何でも悪と裁くために、蓋然性の低い有害事象であるにもかかわらず、主観のみで誇大に恐怖を煽るような印象操作には嘆かわしくなります。

最近報道されたニュースの中で、名古屋大学病院は、ある患者に対し、約3年にわたってCT画像検査で肺がん病変が見逃されていた事実があったことを発表しました。その患者は、肺にあった影が見落とされた結果として肺がんが進行し、それが原因で死亡したというものです。それが非として裁かれるのであれば、意図的な放置を推奨する近藤氏はより悪質であり、看過してよいはずがありません。

近藤理論にあえて従うとするならば、「それは本物のがんであったから、見逃されても死という結果は同じであった」という理由で許容されてしまうのでしょうか。いえ、絶対にそういう話になるはずがありません。

私は、近藤理論の実際の具体的内容に触れ、『週刊新潮』誌上や拙著の中で、その医学的誤謬を可能な限り指摘してきました。昨年の7月には『週刊文春』誌上で、近藤氏サイドから依頼があり、彼の眼と眼を合わせながら直接対論もいたしました。それら一連の経緯をふまえたうえで、本記事でセンセーショナルなタイトルをあえて付したのには理由があります。乱暴な表現だと思われる読者もきっといるでしょう。しかし、前述してきた内容とこれから後述する内容を含めて、何故に「悪魔の沙汰」であるのかを (『Voice』) 誌面の許す限り記してみたいと思います。

 

120万部以上のベストセラー作である『医者に殺されない47の心得』(アスコム)の中では、「医者はヤクザや強盗よりタチが悪い」と記述しています。「ヤクザはしろうと衆を殺したり、指をつめさせたりすることはありません。強盗だって、たいていはお金をとるだけです。しかし医者は、患者を脅してお金を払ってもらった上に、しょっちゅう体を不自由にさせたり、死なせたりする」あるいは、写真週刊誌『FLASH』(2014年11月4日号) では、「病院は、金儲けのためなら、平気で患者の子宮を奪いとる」と掲げました。そして、産婦人科医師の母集団のことを「子宮狩り族」呼ばわりする始末。世界中どこを見渡しても、医師としてこのような倫理的配慮を欠いた危険なメッセージを平気で公にできる者は他にいないでしょう。

「日本の医師は勉強不足でレベルが低い」「日本のがん医療はダメだ」

このように吹聴し続けるわけですが、近藤氏もこの国の医師の資格を持しているはずです。ところが、先人たちがまだ見ぬ国民の健康を願って積み重ねてきた経験知や歴史を、そしてそれらを継承しさらに進歩させようとしている現場の理性を容易に貶めようとします。

ちなみに、「医者はお金に汚い野蛮な人」というレッテルを貼るのが常套手段なのですが、近藤氏自身も医師という立場を利用して、これまでに稼いだ収益は相当な額にのぼっているのではないでしょうか。

例えば、川島さんから「お高い」と評価された30分までの相談料3万2,000円で運営している近藤誠がん研究所セカンドオピニオン外来のホームページをみると、開設以来わずか3年足らずの2015年12月時点で5,000件以上の相談を受けているようです。また、ここ数年だけでも100万部売上を超える著作も含めて何冊ものベストセラーを生み出しているわけで、ざっと見積もっても億単位の莫大な利潤を得ているということです。

稼ぐことが悪いとは言いませんが、社会貢献に奉仕すべき医師という職業姿勢として、売名活動に勤しむ姿はみてとれても、稼いだ利益の一部でも、がん患者やがん教育のために社会還元するような行動は何一つみられません。

そして、もっとも問題視したいのは、近藤氏には医師としての「倫理」が欠如していることです。臨床医学を考えるうえで絶対に無視をしてはいけない、何にも妨げられない礎が「医の倫理」です。なぜならば、医療の対象はモノではなく、病んだ「人」であり、尊い「命」だからです。「医の倫理」がないがしろにされてしまうと、そこは道徳を失った無法地帯となってしまいます。見かけ上、テクニカルにいくら理屈のようなもので成り立っていても。

しかるに、「がん」を単なる関心事や興味ととらえるメディアにとっては、それの重要性がいまひとつ理解されていないようです。「近藤医師との対決」のように、ディベートでの勝ち負けに焦点を当てるような近藤理論を中心に据えた取り上げ方をいくら繰り返しても、どれほど「がんリテラシー」の向上に役立っているのでしょうか。

もし万が一、近藤理論を医学枠のものとして取り上げたいのであれば、それのエビデンスレベルをあげる努力をみせなくてはいけません。言い換えますと、医学論文という形にして客観的な評価を仰ぐことが前提だということです。STAP細胞問題に揺れた小保方晴子氏も、しっかり科学論文にした後で客観的見地から裁かれたわけです。無知な一般大衆向けに、都合のよい話や数字を調達してきて、わずかな体験談のみでセンセーショナルに論を張るのでは学問的には誰にも見向きされないわけです。

繰り返しになりますが、医学という土俵の上で「がん放置」の優越性について議論されたいのであれば、放置したことによって得られる利益を示さなければいけません。論文にもしないで治療することのリスクを誇大に煽るだけの陰口論調では幼稚だといえるでしょう。それが不可能であれば、自らを科学者と名乗るべきではありませんし、「医学vsオカルト」の構造を永遠に越えることはできないでしょう。

近藤氏との直接対論の中で、早期胃がんを手術する根拠を示せと言われました。手術vs放置を比較したデータがないのに、なぜ手術をするのか?と。それに対し、倫理的にそのような比較は成り立たないことを申し上げました。医師の興味のみでそのような比較試験ができるわけがない。手術によって数えきれない患者さんの命が救われ、その利益は経験知として十分に証明されているわけです。医学論文としても良好な治療成績がしっかりデータとして示されているにもかかわらず、将来が予測できない原始的な放置と比較することは倫理的に不可能であると。

このやりとりを単なる水掛け論と揶揄する者もいました。しかし、もし読者自身や愛するご家族の誰かが、胃がんと診断されたとします。主治医から、「治療方針は手術と放置と二通りがあります。サイコロを振ってどちらになるか確率1/2で決めましょう」と言われてそれに従えるでしょうか。手術にはしっかりした根拠があるのに、放置だったら治せるものも治らなくなる可能性があるから嫌だなあ、そんな比較に巻き込まれるのはごめんだ、という意思決定が十分配慮されなくてはいけないのが「医の倫理」なのです。

私は、すぐさま気づきました。近藤氏は倫理的に実行できないことをあえて問うことで、ディベートに勝つことだけを目指している確信犯なんだと。

18世紀最大の日本古典研究家であった本居宣長は、「世の物知り」を嫌っていたそうです。なぜならば、「考える」とは物事に対する単に知的な働きかけではなく、対象と親身に交わることである、と解釈していたからのようです。

これを医療従事者に当てはめますと、知やスキルを携えながら、患者さんと誠実に向き合うことに相当するのではないでしょうか。

以下のエピソードは、慶應大学病院時代に近藤氏の後輩として当時寄り添って働いていた、ある放射線科医師から聞いた話です。「近藤先生の臨床姿勢は、とにかく患者さんに冷たい、入院している患者さんの顔もろくにみにこないし、末期患者さんの看取りも研修医任せのことがほとんどだった。そのくせ、会議では自信満々で言いたいことだけを語って去っていく」というものです。論文をたくさん読み込むことには時間を費やしても、ベッドサイドに立って患者さんを丁寧に診ることを怠ってきたのでしょう。

では、「医の倫理」とはどのようにして築かれるのでしょうか。決して教科書や医学部教育で学べる認知的なものではありません。臨床現場で患者さんひとりひとりに直接、手を差し伸べながら真摯に向き合うという実践の中で育まれるものだと思います。そう考えますと、近藤理論になぜ「医の倫理」が宿らないのかは賢明な読者にはすぐにおわかりでしょう。

昨今の安保法案反対デモ行進でみられた “安保法案=戦争法案”と身勝手に定義して、ヒステリックに声をあげている人たちに、大きな不安を覚えました。彼ら、彼女らの中に、「日本国憲法」をしっかりお読みになったうえで、国家の安全保障について理性的に議論できる人達が一体どれほどいたのでしょうか。「好きか嫌い」だけの感情論、「〇か×」だけの二元論的な結論付けになってはいなかったでしょうか。そのような思考停止の病理が広く一般に蔓延しているとしたならば、単純化された二元論的な近藤理論が広く受け入れられやすいのは仕方がないことなのかもしれません。

近藤氏の言説をみると、「がんとは、こういうものだ」と理屈のみで言い切っています。すべての患者を、「がんもどき」「本物のがん」の二元論で片づけてしまうように。持論を何が何でも堅守するためには、理屈のうえに理屈を重ね、なぜか論理だけはものすごく発達し、いつも相手を論破するということに囚われているようにみえるのです。

しかし、未知で不慣れな人間は弱いもので、「慶應義塾大学医学部」というブランド肩書きをもつ医師によって、教養や知性を語る立派な出版社から数字や論理を畳みかけられると、すっかり相手のペースに巻き込まれてしまいます。自身の頭で、「それって本当なの?」と懐疑的に考える前に、「そうかもしれない」と変に納得させられてしまう罠です。そればかりか「きっとそうに違いない」という盲信にまで発展してしまいかねません。

まとめますと、近藤理論とは、目の前にいるがん患者をすべてegoism(エゴイズム)によって「点」で裁いてしまうディベート用につくられたゲームのようなものです。都合のよい数字や論文データを駆使することで、相手の反論を抑えることだけを目指しているようにみえます。患者にとっての残された時間や人生という「線」を思いやり、ひとりひとりの幸福の希求についてはまるで配慮されていません。

近藤氏が医師としてこれまでに多くの犠牲者を生み出していることを認知しながらも、非を認めようとせず、同様な「悪質な一貫性」をとり続けるとしたならば、もはやそれは倫理や道徳が宿った医師の姿ではなく、まさに悪魔ではないでしょうか。

冒頭で述べた「悪魔の沙汰」とは 'がん放置理論' の蔓延に他なりません。

倫理を欠いた見事な「やらせ理論」に対して、その胡散臭さをそろそろ嗅ぎ分けなくてはいけない時期がきているような気がします。(月刊誌『Voice』4月号より 一部改変)

 

東大病院を辞めたから言える「がん」の話 (PHP新書)

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  • 作者: 大場大
  • 出版社/メーカー: PHP研究所